ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

人類進化から見た本来の育児は「共同養育」

昨日(12月7日)のNHK朝ドラ「べっぴんさん」を見ていて、あーこれは「共同養育」のことを言っているなと思いました。

喜代:どうしても手のかかる子はいます。いい悪いやなくて、人の何倍も手のかかる子はいるんです。
昭一:どうしたらいいんでしょう?
喜代:何倍も手をかけたらいいんです。周りに大人がいっぱいいますやろ。誰が親やというのやなくて。手をかけて育てていけばいいんです。
(場面変わって)
すみれ:みんなで手をかけて育てていきましょう!
(こんな感じだったと思います)

少し前に「ママたちが非常事態!?」というNHKスペシャルがありました。最新の科学で子育てにまつわる問題を明らかにし、大きな反響があり続編も放送された番組です。

NHKスペシャル ママたちが非常事態!? ~最新科学で迫るニッポンの子育て~

その中で、アフリカはカメルーンで狩猟生活を営むバカ族の人々の子育てにスポットあてたシーンがあります。

彼らは集団生活を営んでおり、女性も、そして子どもを産んだ母親も採集のため森に入っていきます。

まだ幼い乳飲み子はどうするかというと、村に残る他の母親や女性に預けるのです。

こうしてみんなで子育てします。共同養育です。

チンパンジーは5年に1匹の割合でしか子どもを出産しません。その理由は生んだ母親がいつも一緒に子育てするためです。5歳になるまでそうすると言います。

しかし人間(ホモ・サピエンス・サピエンスである私たち)は、毎年子どもを産むことができ、飛躍的に人口を増やすことができました。

これは仲間で助け合って子どもを養育するシステムのおかげだということです。

現生人類は協力し合って大型動物を狩猟し、助け合って子育てをすることで食物連鎖の頂上に立てたのでした。そうした遺伝子が組み込まれています。

ですから一人で子育てをするというのは人類進化的にみて無理があるのだということです。

孤立感を感じ、不安で仕方なく、精神的にまいってしまうことが起こるのはある意味当然なのだということです。(実に7割の母親が孤立感をもっているといいます)

そういえば…私自身も年少の頃は、両親だけでなくおじやおばに手をかけてもらって育ったことを思い出しました。

こうした共同養育こそ本来の育児の姿だったのだという知識と価値観が浸透していくなら、2060年に人口が8500万人になるとも予想されている超少子化の進行に、いくらか歯止めがかかって行くかもしれません。

そんなことを思ったので書き留めました。

「経営マトリクス研究所」

姫路市においていた有限会社をこちら(大阪府茨木市)に移転登記し、ついでに商号も変えて、年初に再出発しようと先月からいろいろと考え抜いて、決めた社名が「経営マトリクス研究所」である。

「経営」はともかく、なぜ「マトリクス(orマトリックス)」なのか?

じつは私にとって「マトリクス」は第3期を迎えている。

最近、興味を持っている「仏教3.0」を真似させていただくなら、私にとってのマトリクスの現在は「マトリクス3.0」なのである。

第1期は中小企業診断士の勉強を始めた24歳の頃で、勤めていた金融機関のQCサークル活動で、営業と店頭業務のマトリクス組織を提案したことがある。今では有名な村田製作所の「マトリックス経営」を参考にしたものだった。6か月間ほど支店で実践することになり、多少の効果も出て、成果発表会では部長からお褒めの言葉もいただいたと記憶している。それが一番初めだろう。

その後、コンサル会社に移り、経営コンサルタントとして仕事をする中で、アンゾフの「商品市場マトリクス」や「PPM分析マトリクス」、「状況対応型リーダーシップのマトリクス」、「新QC7つ道具としてのマトリクス」…などなど、四象限を中心にビジネス・マトリクスを当たり前のように使用してきた。

マトリクスを活用することで戦略的思考が整理されるのである。それが第1期、いうなれば「マトリクス1.0」である。

そして第2期は、このブログのタイトルにもなっているケンウィルバーのインテグラル理論の活用としてはじまった。

下図に示した四象限(クワドラント)である。

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この統合的な視点をもたらすクワドラントは2002年頃から関わっている医療NPOの事業領域を表現するうえで大変便利なだけでなく、様々なインスピレーションを刺激してくれた。

現在のホームページのインテグラル・サポートというコンセプトにも活用され続けている。

http://www.es-bureau.org/

内部の打ち合わせで分からなくなったときは、いつもここに戻ると、私たちが何をしようとしていたのかを確認できる。「分からなくなったら四象限に戻れ!」は、ひとつの合言葉だ。

これが「マトリクス2.0」といえるだろう。

そして今、私にとってマトリクスという言葉は、第3期を迎えた。

この第3期マトリクスは、四象限とか行列で表現される思考のツールなのではなく、本来のマトリクスの語源(ラテン語Mater母+ix 子宮、母体の意)にあるような、ものを生み出す創造の源としての知性だ。

また古代インドの「母神」のサンスクリット語は「マートリカ」であるという。

赤ちゃんがいる母親の胎内という意味の「母胎」という言葉が、ぴったりくる感じがする。

ビジネス領域でいうならば、新ビジネスをインキュベートする孵卵器の働きともいえるだろう。

知性の全体を氷山に喩えていうなら、水面上に見える部分は言語化できる論理的知性である。それに対し、水面下に隠れていて見えない(無意識である)が、新しいものを生み出す母胎として働いている知性がある。中沢新一氏の表現を借りるなら「対称性の原理」で働く「流動的知性」(注)である。

「分別知」を下から支える「無分別智」ともいえる。

河合隼雄氏いわく、

マトリックスはまさに曼荼羅です。「胎蔵界曼荼羅」、英語にしたら「マトリックス」。(『仏教が好き』(朝日文庫)p263)

シンクロニシティの源でもある。

そして、このブログで何とか迫ろうとしている知性の真髄であり、それが私にとっての「マトリクス3.0」である。

「経営」とはもともと仏教用語で、人生をどう営むか?という生き方そのものを意味するという説がある。とするなら、

生きかた(経営)の元となる知性を生み出すことの探求… … …

 

「経営マトリクス研究所」を、どうぞよろしくお願いいたします<m(__)m>。


(注)「対称性の原理」…異質に見えるものの間に同質性を見出し、分離を乗り超えようとする働き。「流動的知性」…ネアンデルタール人にはなく現生人類にはじめて現れた象徴的思考。脳神経組織の異質な領域を横断的に高速で流れる。いずれも『対称性の人類学』(中沢新一著)参照

 

無我とは本質なき実存、主体としての空

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〈画像はintegrallife.comの Integral Mindfuinessより〉

藤田一照氏、永井均氏、山下良道氏鼎談『〈仏教3.0〉を哲学する』を見ております。

第1章に、「無我と本質と実存」という節があり、たいへん興味深く読ませていただきました。主に永井氏によるコメント部分で、本書全体のエッセンスをなぞるのに最適かと思われます。まずは要点を抜粋します。

無我とは何がないことか?

本質がない、ことである。

本質とは何か?

実存と対立する言葉である。

どちらもbe動詞

「~がある」が実存 

「~である」が本質 (一照さんはお坊さんである、という場合「お坊さん」が本質)

私には本質はないけど実存がある

「実存は本質に先立つ」(サルトル

何であるか(本質)は分からないけど、とにかくそれ(実存)がある

他人たちは本質(属性など)で見分けるが、どの人が自分であるかは直接的に実存しているこいつ、と識別できる。

このように識別ができるものとして「今」がある。端的に存在しているときが今。今しかない

同じように、私以外のものはない。というか他者を見て、ああいるな、何とかさんだとか思っているのはいつも私で、すべては私において起こる。それもただ実存しているだけで、特定のだれかであることがないような私において。

そういう意味で、わたしはただ実存しているだけで、今が今しかないのと同じ意味で、私も私しかなくて、それが全てなんです。


過去や未来はあるが、それらはみな今においてあるだけである。

私自身を他から識別してとらえる時、ただ端的に存在しているという事実によって、識別してとらえている。➡認識論的な考え方

本質(属性など)において自分と全く同じ人がいたとする。しかしその人が自分になるわけではない→私は本質ではない。

私が存在するとは、ある特定の本質を持った人が存在しているということではない➡存在論的な考え方

そういう内容、中身とは関係なく、なぜか端的に感じられる生き物が一つだけある。

今もおなじ。
現在というのは、こういうことが起こっているから現在であるというのではない。
今起こっていることは、内容を全く変えずに過去になる。
ただ過去になるだけで、全く同じ中身が過去になるだけ。
だから今であること自体は、起こっている内容とは関係なく端的に今であるだけ。

私であるということも、その人の中身とは関係なく、なぜかそいつが端的に私であるだけ。

私はその成立において端的に無我である。本質がなくもちろん実体もない。「何であるか」がない。

坐禅をやると本質とか内容というものが捨てられていく。そんなものは自分じゃないとずっと昔から思っていたから。それで残ったものが実存。(仏教用語の仏性)

良道氏の「私の本質は青空だ」
永井氏「私には実存だけがあって本質はない
本質とか内容とか中身じゃなくていわば空っぽ。
」といってもいい。
中身はあることはあるけど関係ない。

煩悩の浮き沈み、ああなりたいこうなりたいはみんな本質
悩みもみんなそこに入る
それを私という実存と区別して切り離す訓練(哲学的ワーク)をしているともっと楽に坐禅や瞑想に入れる

八正道の最初の二つが正見と正思であることに関係しているかも。

(最後の5行は藤田氏のコメントからの抜粋です。)

いかがでしたでしょうか?抜粋なので伝わりにくい点があると思われますが、琴線に触れる言葉がひとつでもありましたら是非本書をご一読ください。

私はこのブログでケンウィルバーの選集『存在することのシンプルな感覚』からも多くを引用してきましたが、共通した点が本当にたくさんあります。この原書のタイトルは"The Simple Feeling of Being Embracing Your True Nature"ですがこの言葉でウィルバーの言っている意味は、上の文章中で永井さんのいった「ただ端的に存在している」とか「端的に感じられる」という意味に大変近いと思われます。

ブログのカテゴリー分類として使用している、Witness(目撃者)、Self(大文字の自己)、Seer(見者)、Awareness、などは『存在することのシンプルな感覚』のキーワードですが、文脈によるニュアンスの違いこそあれ、永井さんのいう「実存」にほぼ重なっているといえます。

ですから、いわば空っぽ、「空」といってもいい、という永井さんの表現を目にして、冒頭の画像ー顔が円相(実存)で、おそらく月を背にして(いや月に向かってでしょうか?)の坐禅ーがぴったりという気がしました。

そして、この実存は私が好んで使っている表現としては「主体としての空(くう)」です。

今後も積極的にウィルバーの言葉と『仏教3.0を哲学する』の関連について取り上げて行きたいと思います。

 

 

 

 

 

これらは実は〈中〉だった!クラインの壺の神秘

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眼から外の世界に見えているもの

テーブル、椅子、棚、床、窓、カーテン、外の景色、自分の手足

などなどのこれら

両腕を後ろに回して、手の甲を重ねてみる

蝶が翅を閉じているときのように

そこから、ゆっくりと、巨大な岩の扉を開くように

周りに見えている世界を

後ろから横、横から前へと

圧縮していく

蝶が、折りたたんだ翅を

ゆっくりと広げるように

背中から、翅の後ろの隙間から

〈外〉が開く

〈外〉は、本当は無いものだが

ウォー
うぉー
WHOO ー

背中から〈外〉が開き

周りの世界、横の世界、前にある世界

もとは外だと思っていた世界

を縮めていく

腕が横まで回ったとき

(翅が広がったとき)

世界は腕の中にある

世界は手の内にある

世界は実は〈中〉にあったのだ

私たちは世界の中に存在しているのではない

世界が私の〈中〉にあるのだ

まさにクラインの壺の神秘である

 

※『〈仏教3.0〉を哲学する』を読んで心に浮かんだイメージを表現してみました。あえて言うならば、永井均氏のp189の図(上図)と次の文章に関連しています。

〈私〉というのは全く格別の存在で、それ自体は見えない。むしろ、この視野そのものが〈私〉です。そして、ある意味ではこれが全てなんですね。この視野が、視野は一つの比喩にすぎないので、実際は意識野全体に広がりますけど、この視野がすべてで、その外はない、ということになります。

誤解のないように書き添えると、永井氏は〈私〉〈いま〉という山括弧の表現をこの本のなかでされていますが、〈中〉とか〈外〉というような表現は使用されていません。私がこの記事のなかで通常の中、外と異なる意味を感じ取っていただくために、〈中〉〈外〉と表現させていただきました。

生きかた「知縁」カフェ第3回についてのお知らせ

 

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今年の9月25日に出版された3人の鼎談からなる『〈仏教3.0〉を哲学する』がとても面白いです!!

このことを受けて、第3回の生きかた「知縁」カフェの3つ目のテーマとして、以下の内容を書き添えました。


「観察者としての自己」を取り上げ、藤田一照氏、永井均氏、山下良道氏共著『〈仏教3.0〉を哲学する』の中のテーマ「瞑想の主体」、「無心のマインドフルネス」等との関連を見ていきます。


本書は〈わたし〉〈いま〉「ことばの功罪」など、ACT、マインドフルネス、ウィルバー哲学などを学ぶ上で、極めて重要な視点をテーラワーダ仏教大乗仏教、哲学的アプローチを含めて、たいへんわかりやすく検討しています。


とても有意義な書であると感じています。今後何回か取り上げて行くことなると思われますが、今回はその第一弾です。どうぞご期待ください。

これまでで関連する記事にはこちらがあります。ご参照ください。

nagaalert.hatenablog.com

 

Meditationの測定?

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高額なEEG(脳波、Electroencephalogram)測定器でなくとも何とか参考になる程度でもいいからマインドフルネス瞑想の状態を確かめたいと思い、MUSEというヘッドバンド方式の簡易測定器を購入して試行中です。

スマートホンにアプリをダウンロードして、額に接触するヘッドバンドを耳にかけブルートゥースで接続します。イヤホンでプログラムの背景音を聞きながら瞑想します。

瞑想の状態によって画像のようにActive、Neutral、Calmの3つのレベルに分類されますが、β波、α波、θ波などにどのようにリンクしているのか、またはしていないのかは分かりません。

時間は3分、5分、7分、12分、20分、30分、自由設定から選べます。

Calmの状態にまで深まれば、Birdの鳴く声が聞こえます。ActiveやNeutralでは聞こえません。最初は耳をすませば聞き取れるのかと思いましたが、そうではなく、ニューロ―フィードバックになっていて、状態が深いとたくさん鳴くようになっています。

上の画像は私がこの2か月ほど使用していて今までで一番良かった時のスコアですが、97%がCalmでした。ほぼコンスタントに80%以上、調子がいいと90%台がでます。しかしやや興奮気味で頭がしゃべっているときはCalmが50%ぐらいになる時もあります。

おそらくCalm40%から10%毎にAwardsが設定されており、90%台ならPeaceful Awardとして"Wow. More than 90% calm? This is truly a rare achievement. You should be proud."と表示されます。

私はまだ使用している国内の人を知りません。どなたか使用されている方がおられましたら、情報交換させていただければ幸いです。それは、あてにならないという情報でも結構ですので(笑)

 

アテンションのスタイルを自在に選択する

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前回のブログでフェーミ博士の唱えるアテンションのスタイル「ディフューズ/オブジェクティブ」「ディフューズ/イマースト」とあわせて、次回に「前景と背景を等しく見る」を取り上げる、と書きましたが、それに先立ちまして、フェーミ博士の唱える「オープンフォーカス理論」(私なりに簡単にいうと、状況や目的に応じて柔軟で自在なアテンション・スタイルにフォーカスできることが望ましいという理論)を整理しておきたいと思います。

まず、上の図のようにアテンション(attention)には、4つのスタイルがあるとフェーミ博士は言います。(以下、The Open Focus Brain p46-p54より拙訳抜粋)

Narrow

ナロー(Narrow)のスタイルでは、体験の限定されたフィールドにアテンションを集中し、意識から周辺の知覚は排除される。…

どんな感覚や思考、あるいは問題でもほとんど他のすべてを除外して慢性的にナロー・フォーカスする(限定した知覚、感覚、思考、感情に集中する)ことは可能だ。例えば、ナローフォーカスで会話をしているなら、話されていることと、自分の心の会話以外の感覚の入力がブロックされるように。

結果として会話の中身に対する身体的な反応には、注意が及ばないままとなる。

この自覚の欠如は私たちからたくさんの「感情知性」を奪い、本格的に他者への関わりを求められる時に特に有害である。…

Diffuse

ナローと反対にあるアテンションのタイプはディフーズ・フォーカスだ。それはよりソフトで包含的な世界の景色を提供する。

懐中電灯の光線のようなアテンションを考えよう。キャンプ旅行で誰かが樹の中にクマの子どもの声を聞いた。光線が狭くなるまで光を調整しなさい、近づくと光の全部がクマにフォーカスするでしょう。

しかし私たちがその木に動物がいることを知らないなら、電灯の光線が照らす範囲を一本の木よりももっと広げることができる―クマを含めて森のもっと広い範囲を照らすまで―。

 ディフューズ・フォーカスは排除的あるいは単一のポイントというよりむしろパノラマ的だ。もっとも究極的な形態において、それは包含的で3次元的だ。内側と外側の刺激に対して同時に等しいアテンションを向ける。それらが生じるスペース、沈黙、非時間(timelessness)にも同じように。

特別なアテンションの対象が目立つということはなく、対象と背景の間の区別は明瞭ではない、あるいは消滅する。

森を歩いているとき、鳥の声、花の香り、風の感覚、木々の景色そして同時にこれらが生起している(その背景にある)スペースと沈黙(silence)がディフューズ・フォーカスだ。

 ナローとディフューズの両方のアテンションを包含しそのバランスを取ることが、たいていの日常生活において適当なのである。

ナロー・フォーカスは集中し、意識を強化するが、ディフューズ・フォーカスは体験と反応を広げ和らげる。

オープンフォーカスはナローとディフューズのアテンションの形態を同時に気づきの意識へと許容する包含的なスタイルである。

もしナロー・フォーカスに集中しているにもかかわらず、スペースの気づきや他の体験への感覚をシンプルに包含しているなら、私たちのアテンションはもっと等しく配られ、アテンションがストレスを拡散し分解するだろう

 それは暗くなった部屋のドアが開くようなものだ。ドアが開くときその隙間は部屋に十分な光が入ることを許容する。

その結果、暗闇にあった多くのモノがはっきりと今や見られるのだ。加えて、空気がいくらか部屋に入ってくると呼吸するのが楽になるだろう。

私たちのフォーカスを開くことはドアを開くのと同じように作用する。ほんのわずかなオープンが知覚的身体的環境を著しく変えるのだ。

 Objective

図の横軸は経験に遠いか近いかの感覚に関係する。

この連続体に沿った柔軟性は、必要に応じてフォーカスをナローにしたりディフーズにしたりできるのと同じぐらい健康や身体機能にとって重要となる。

オブジェクティブなアテンションは、観察者を意識の対象から引き離し、それを評価しコントロールする意識的な能力を高める。

アテンションの異なるスタイルは、特定の身体の姿勢や表情に関係し、支えられる。ロダンの考える人は典型的なオブジェクティブ・アテンションの姿勢であり、人々が冷淡な、あるいは審査するような表情で顔色が悪いなら、その時はこのスタイルを強めているといってよい。

オブジェクティブ・アテンションは人類に、原初の祖先が物質的な世界との間に有していた一体感から一歩下がって、自然の法則を発見するのを促した。

それは数え切れないほどさまざまに、わたしたちの生活を向上させる革新を引き起こした。そして不運にも、それはまた私たちが自然の一部であるという意識からも私たちを分離した。

環境の責任ある支配者という私たちの過ちをおそらく説明するものだ。

 

Immersed(Absorbed)

Objectiveと反対の軸は、浸りきった、あるいは没入した(immersed or absorbed)アテンションと関係し、対象との融合状態に入っていく人の特徴であり、忘我や無意識の地点に至るプロセスである。

それは通常、いつもというわけではないが、楽しみのある含みをもっている。普通の例としては、おいしいものを味わったり、セクシャルな楽しい体験があげられる。

人々の没頭したさまは通常うっとりした表情をもつ。それはこの種のアテンションの心と体への反映だ。例えば、恋人の顔、コンサートに行く人、あるいは満足げなグルメのうっとりした顔を想像してください。

創造的なアーティスト、あるいはプロフェッショナルなアスリートは苦もなく練習の成果を演じる。あるいはダンサーは、とても音楽と自分の動きに没頭しているので、自己の感覚を忘れている、それがイマースト・アテンションだ。

 そして、アテンションのスタイルはこの4つのどれかなのではなく、その組み合わせで現れるといいます。

ディフーズとイマーストの両方のアテンションは脳の右半球で組織化される。

私たちは同時にひとつ以上のアテンションを払うことができる。アテンションの異なるスタイルは分離したメカニズムであるが相互に排他的ではない。

そして、以下のようにABCDという4つのアテンションの次元が示されます。

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十分に柔軟な中枢神経系は、ナロー/オブジェクティブなアテンション、あるいはディフーズ/イマーストな状態のどちらか一方にバイアスをかけられることはない。

その神経システムはこれらのスタイルを自然に回転し、スペクトルに沿ってさまざまなアテンション・スタイルを組み合わせる。

 オープンフォーカスでは、私たちのアテンションは包含的である―景色、音、他の感覚的情報はすべて、広く興味深い方法で、(背景である)スペースとも一緒に、取り入れられる。

ひとつの感覚のシグナルが他を排除してフォーカスされることはない。もっとも重要なことは、オープンフォーカスは私たちがどのように注意しているかの自覚を促すということである。

私たちは最も適したスタイルを決定し、すばやくそれを強調する。図の区切り線によって定義された4つの象限(ABCD)は、アテンション・スタイルの異なる組み合わせと符合する。

 

ナロー/オブジェクティブ 

象限AはNarrow-objective attentionと関係する。それは私たちが最も得意とするスタイルだ。

それは高い波長の脳波(中程度より高いβ波)と連動し、主として左脳によって組織化される、エネルギッシュで速いペースの活動である。

narrow-objectiveフォーカスによって、私たちは優先的に、ある限定された経験の領域―視覚、聴覚、認知的な刺激から成る―に注意を払う。

しかし内側の身体的知覚や感情、そして他の感覚様式は排除する。このスタイルは形(figure)の対象化を強調し、背景に対する気づきにはほとんど意識を馳せない。

極端に言うと、たとえば蝋燭の炎を見るような一点へのアテンションである。

 極端なnarrow-objective attentionは、それが使われすぎや慢性的となった時、深刻な影響をもたらす。心配、パニック、悩み、そして深い全身性硬直に至る。

それはまた、滑らかで流れるようなパフォーマンスの敵でもある。

たとえば、イップス―パッティングの時の痙攣性の制御不能な筋肉の動き―として知られているものに苦しむゴルファーは集中しすぎて筋肉が緊張しているのである。

 

ディフューズ/オブジェクティブ

B象限によって表わされるdiffuse-objective attentionは、われわれが経験する広い領域を包含しながらも同時に客観性を残し、経験するものから離れている時に生じる。

このアテンションのスタイルによって、空間の、沈黙の、心の、そして時間のない、より拡散した気づきの真ん中に不動の存在として、ずらりと並んだ客体の感覚を受け取る。

このスタイルはよく学習された行為によって典型的に表わされる。反復を通して思慮深い熟達を獲得する。

オーケストラで演奏すること、車の運転、聖職の儀式、本格的あるいは芸術的な作品への専心、プレイの監督など―仕事に距離を置いた視点を維持しながら多くの刺激を包含するために、フォーカスが広げられたすべての状況である。

  象限Aと象限Bは「両方とも経験からのかい離に依拠したアテンションのタイプを表わしている」といいます。対象を距離を置いて見る、その対象を狭い視野で見るか広い視野で見るかの違いであるといえます。

それに対し「残りの二つの象限(Ⅽ、D)は、短く言うと、経験への没入程度と関係した注意の形態を表わす。没入の究極的な形には自己意識の消失がある」といい、「象限AとBが自己と他者、主体と客体の区別を強調するのに対し、象限CとDはこの区別の溶解、体験との一体化を強調する」と書かれています。

 

ディフューズ/イマースト 

象限Cのモード、diffuse-immersed attentionは、私たちの文化が求めるナロー・オブジェクティブなスタイルと正反対である。

現代の生活によってもたらされた心理学的生理学的に蓄積されたストレスから回復するのに最も効果的なアテンションのスタイルだ。

ディフューズ/イマースト(拡散ー没入)のアテンションは、「経験への一体化」と「経験の注意範囲の拡大」を同時に内包する。

これらの性質を強調する状況の自覚は、私たちの文化では普通ではなく、最も多くのこのアテンションのスタイルに関係するのは究極の創造性、愛、霊性の成就である。

ディフューズ/イマーストのスタイルが強調されるとき、時間と空間の境界が溶解し、あるいは区別が消失する

ナロー/オブジェクティブのアテンションでは分析がサポートされるが、ディフューズ/イマーストのスタイルは多様性の統合をサポートする。

意識的な気づきと様々なアテンション・スタイルの柔軟な応用は機能の最適化を促進する。 

 

ナロー/イマースト 

象限Dはnarrow-immersed attentionを表わす。低い周波数と高い周波数の組み合わせと関係し、ナロー/イマースト(狭窄ー没入)のアテンションは経験を味わうことと強化することを同時に認めさせる方法である。

仕事に没頭したり、自分を見失ったりする時その過程の時間の感覚が失われるが、これもまたナロー/イマーストのアテンションである。

魚釣りを楽しんでいる男のことを考えてほしい。彼は流れるようにフライを投げ、魚が餌に食いつくこと以外に何も見ていないほど、数時間われを忘れる。

釣りの魅力はこの没頭のアテンションのスタイルからくる生理学的な解放なのだ。

 ナロー/イマーストのアテンションには、知的な関心、あるいは感情的、身体的な悦び、刺激的な活動―経験を味わい、それを強化するために私たちが物理的に近づきたいと欲する経験が含まれる。(通常の娯楽はここ)

アスレティックのアトラクションや文化的イベントは、自己意識の最小化を伴う没頭あるいは没入の機会だ。

そんな深い没頭から乱される時に人々が感じるイライラの、それは説明なのだ。

 

そして以下のようにまとめられています。

この4つの象限に述べたアテンション・スタイルの複合に加えて、私たちはアテンションのそれぞれの軸の反対方向の極を統合することを学ぶことができる。…

ナローとディフーズを統合することの重要性は前に討議した。

オブジェクティブとイマーストのスタイルを同時に維持することは私たちの人生を変えるほどの大きなストレスの解放である。

世界とひとつになるような満たされた生命感を感じるだけでなく、はじめて創造的、超越的な領域の経験、人生の多次元的な体験をする自分を見出すだろう。…

直ちにオープンフォーカスで見なさい。私たちはナロー/オブジェクティブ、あるいはナロー/イマースト・フォーカスで生活することがあまりに習慣化されすぎているため、それをすぐにブレイクすることはできない。

オープンフォーカスは周辺に気づきの意識を向けるだけではなく、すべての対象と空間に等しく同時の気づき―微細だが決定的で間違えようのない違い―を与える。

それは学ぶのに時間と実践が必要なスキルだ。しかしながら、この本の中にあるいくつかの特別なエクササイズによって、誰でも注意を向ける方法を変えることを学べる。

そうして極端なアテンションの偏りや努力、緊張、ストレスの蓄積との関係を減らすことを選択するのだ。

 「オープンフォーカス」イコール「ディフューズ」なアテンションではありませんが、私たちがナローなアテンションで生活するのに慣れ過ぎているため(特にナロー/オブジェクティブにロックされているという表現が本書の終盤で見られます)、訓練して意識的にディフューズなアテンションを取ることが大切であり、そのような柔軟なフォーカスを取れることがオープンフォーカスなのです。

『実践!マインドフルネス』で熊野宏昭さんが書かれた「注意の分割=場としての自己」とは、ディフューズなアテンションのことであり、「世界と自分が一体になり全部を感じ取る」とは象限Cのディフューズ/イマーストのスタイルで起こることであると思うのですが、いかがでしょうか?