ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

〈自己=世界〉と「常に現前する気付きの意識」

仏教3.0を哲学する』のp110、P111に描かれている第五図、第六図がとても興味深いです。この絵にあるような「自己ぎりの自己」すなわち〈自己=世界〉を実感を持って確立するためにはどうすれば、あるいは「どうあれば」いいのだろうかということを改めて考えました。

そして今朝、坐っていて、やっぱりこれだと思い至ったのは、ケンウィルバーのいうEver-Present Awarenessです。「常に現前する気付きの意識」と松永太郎さんは訳されました。

まず、『仏教3.0を哲学する』の第五図は、次のように描かれています。

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これは、山下良道氏いわく「映画の中に入ってしまわないで、映画を見ている自分に気づいている」状態です。

以下、永井均氏の言葉を引用します。

「わが生命」は中に入っていないで、外に出ているんです。その一員として何かヤリトリはしていないで、その様子を外から見ているんですね。だから、「たんなる人間としての自分ではない」とも言われています。

じゃあいったい何だと問われたなら、もちろん何でもない。本質ではなく、存在、実存そのものです。何でもないのですから、もちろん誰でもないです。

一員として投げ込まれて、分別や比較や価値づけによって他人とヤリトリはしていないような、だから体験する自己と体験される世界の区別がもはやないような、独我的=無我的な自己、つまり〈自己=世界〉であるような自己で、これが最後の第六図に表されている「自己ぎりの自己」であるわけです。(引用ここまで)

 

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坐禅している人の頭の位置にあるスクリーンに描かれている絵は第四図として出てくるAとBがいっしょに描かれていますが、
「アタマが展開した世界に住む人間」
A 逃げたり追ったり
貧乏・不幸から逃げ、金・幸福を求める
B グループ呆け
思想や主義で集団を形成して争う
例)ユダヤ教徒 VS マホメット教徒  於: エルサレム
と書かれています。

人間は言葉を発明したせいで「アタマが展開した世界」に住んでしまっている。個人としては、A 逃げたり追ったりし、グループでは、B 思想や主義で集団を形成して争う、ことになる。そうしたことをある種、運命づけられているといえます。

「アタマが展開した世界に住む」とは山下氏のいう「映画のなかに入ってしまっている」ことで、これは熊野宏昭氏のいう「思考の黒雲の中に巻き込まれている」こと、私の用いてきた喩えでは「風船の中、あるいは吹き出しの中に頭がすっぽり入ってしまった」状態を言います。

それを永井氏は中に入っていないでその様子を外から見るのが第五図だといっています。
雲から出て思考という雲を外から見ること。風船あるいは吹き出しから頭を外に抜くことです。

 

では、このような「あるがまま」の認識は、どのようにすれば達成できる、あるいは獲得できるのでしょうか?

ケンウィルバーの『存在することのシンプルな感覚』の第9章は、次のようなことばで始まります。

「スピリット」はどこにあるのだろうか?いったい聖なるものとみなされることが許されるものとは何か?「存在の基底」とは何か?何が究極の「神聖なるもの」なのか?

第9章は、「常に現前する意識の輝くような明晰性」というタイトルで、英語では
The Brilliant Clarity of Ever-Present Awareness
となっています。その第一節から、以下に引用します。

もっとも高次の形態においては、「スピリット」の「偉大な探求」という形をとる。わたしたちは、罪や幻惑や二元論に満ちた目覚めていない状態から、もっとスピリチュアルな状態へ移行したいと思う。私たちは「スピリット」のないところから「スピリット」のある場所へ移行したいと願うのである。

しかし、「スピリット」のない場所はない。・・・
「スピリット」が不在の場所などない。・・・

もし「スピリット」が偉大な探求の未来の産物として見出されることがないのであれば、選択肢は、たった一つしかない。

「スピリット」は現在、たった今、完全に、完璧に、現前しているのであり、そしてあなたは、それに完全に、十全に気づいているはずだ、ということである。・・・

覚醒それ自体、気付きの意識(awareness)それ自体は、いつも完全に、十全に、現前しているのである。・・・

現在に私たちの気付きの意識(awareness)のうちに、すべての真実が含まれているに違いない。・・・

あなたが、今、見ているものが、答えである。「スピリット」は100%、あなたの知覚の中にある。・・・文字通り、100%の「スピリット」があなたのアウェアネスの中にある。

そして、秘密とは、常に現前しているこの状態を認識することであって、未来において「スピリット」が現前するように仕組むことではないのである。

この、常に、すでに現前する「スピリット」をありのままに単に認識することこそが、偉大な非二元の伝統なのである。(引用ここまで)

 いかがでしたでしょうか?

いきなり「スピリット」という単語が出てきましたが、『仏教3.0を哲学する』の文脈では「実存」という単語に置き換えてもいいかもしれません。

どのように達成されるのでしょうか?と自問しましたが、その答えは「達成」するものだという前提が間違っているということです。同時にどのように獲得するかという問いも間違っています。それは獲得できません(無所得)。すでに獲得されているものだからです。達成するものなのでもなく、「ありのままに単に認識すること」だと書かれています。

秘密とは、常に現前(ever present)しているこの状態を認識すること。
すなわち「すでに常に現前する気付きの意識」Ever-Present Awarenessにあるのだということです。

ケンウィルバーがよく引く喩えとして、日曜日の新聞などに出ている「隠し絵」があります。「この景色の中に20人の有名な人の顔が隠されています。誰だかわかりますか」というあの隠し絵です。

その顔はケネディだったり、リンカーンだったり、最近ではトランプ大統領であったりします。私たちはまっすぐ、その顔を含めて絵全体を見ているのですが、はじめはそれと認識できません。しかし一度それを認識すると、それ以降はもう簡単に隠れた顔を認識できるようになります。

そしてこの隠し絵がもはや隠し絵でなくなるような認識を得ると、「A逃げたり追ったり」、「Bグループ呆け」の夢から覚めることができるということなのでしょう。

〈自己=世界〉は、「常に現前する気付きの意識」として認識されるのだと思いました。

生きかた知縁カフェ 4月度はお休みです。

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脳科学の視点を取り入れ、ウィルバー哲学、マインドフルネス、ACT、アドラー心理学対称性人類学などを横断的に学ぶ勉強会です。ソーシャルビジネス、共有型経済、贈与経済への展開も視野に入れ、交流します。


【生きかた「知縁」カフェ 4月度はお休みです】

◆定員 8名  

◆参加費 3,000円/回あるいは参加費に相応するモノ、サービスでも可。 
◆会場 モノレール阪大病院前の「経営マトリクス研究所」のオフィス        (兼エスビューロー事務所 http://www.es-bureau.org/

◆主催 (有)経営マトリクス研究所 f:id:nagaalert:20170101141322j:plain

◆申込み m-nagasawa@hcn.zaq.ne.jpまで


【生きかた「知縁」カフェとは】
昨今、「生きかた」に迷い悩む人々が増えているといいます。本カフェは、毎月1回、第3土曜日に開催します。学びの場であるとともに、知の交流の場、そして社会の課題を解決するNPOやソーシャルビジネス(SB)、シェアリングビジネスが孵化する場です。先人の知恵と最新科学の動向を踏まえ、どう生きるか、何ができるかのヒントを見つけましょう。


講師・ファシリテーター 中小企業診断士 長澤正敏(ながさわまさとし)
参考:心理哲学系ブログ『ウィルバー哲学に思う』http://nagaalert.hatenablog.com/


次元を行き来するヘキサキューブ、元旦の夢

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新年あけましておめでとうございます。

元日に新しい会社の商号「経営マトリクス研究所」のマークの初夢を見た。これは正夢である。

2次元平面に描く正六角形(ヘキサゴン:hexagon)は、3次元の立方体(キューブ;cube)にも見えるという考えてみれば不思議な図形だ。

これは対角線が描かれている正六角形である。

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しかし同時に、3次元の立方体である。すなわち六角形と立方体の性質を併せもつ、いわばhexa-cube(ヘキサキュ―ブ)である。

この性質は「経営マトリクス研究所」の理念をうまく語るのではないか。

まず対角線に下図のような矢印がついていると想像した。するとこの六角形は言語的知性であるマインドの象徴となる。
というのも私たちの言語的知性は、良いか悪いか、好きか嫌いか、損か得か、正しいか間違っているか、美しいか醜いか、苦か楽か…などなど常に対極のどちらであるのか判断しようとしてじっとしていない。モンキーマインドといわれるゆえんでもある。こうした対極をもつ有形のマインドを頂点をもつ図形で表現できるだろう。

 次にこの形はオレンジ、グリーン、イエローという色の側面をもつ立方体として描かれる。

オレンジでは「合理主義的世界観」を、グリーンでは「多元主義的世界観」を表し、イエローではそれらを統合する「統合的システムの世界観」を表す。

(スパイラルダイナミクスの色分類:参照「万物の理論」ケンウィルバー著)

そして、このキューブの背景には、円が描かれている。

円を背景としてヘキサキューブが描かれている。
この円の内側の色は、ターコイズトルコ石)色であり、「統合的全体的世界観」を表現している。

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キューブの背景に描かれているこの円は「実存」であり、禅でいう「円相」のイメージだ。

この図で「実存」である円相からマインドである六角形がずれ落ちているのは、「身心脱落」(body-mind drops)を表現したかったからだ。(2011年11月2日のブログ参照)

身心が脱落することで、その背景にあった「存在することのシンプルな感覚」である「実存」が露わになる。それは「観察者としての自己」だ。

そして身心脱落し、マインドとの「脱同一化」を果たしてこそ、ターコイズの発達段階である。それが円相のトルコ石色に込められている。

(ヘキサキューブであるマインドと同一化しているのはオレンジ→グリーン→イエローの価値観までである。)

よって、この対角線のある六角形でありキューブでもある形は、色のついた「有形のマトリクス」といえるだろう。

一方、実存である円相は、色のついた映像の背景として、その基体として、いつもありながら普段は気づくことの少ないスクリーン(あるいは「青空」)である。それは、言語的知性を生み出した流動的知性であり、創造の源としての「無形のマトリクス」である。

さらにこの大きなヘキサキューブ形の中には、無数の小さなヘキサキューブがぎっしり詰まって並んでいると想像する。

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じつは六角形とは隙間なく詰めることのできる数少ない図形のひとつである。6つの辺がそれぞれ他の六角形に隣接する。立方体としてもまた、それぞれの6つの面が他の立方体と隣接している。
すなわち、他の6つの形から絶えず影響を受けるとともに、自らも他の6つのヘキサキューブに影響を与え続け、瞬時に全体(大きなヘキサキューブ)に伝播する。これはまさに「複雑系」であり「縁起」である。

シンクロニシティの土壌であり、単独では自性を持たない空性としての胎蔵界曼荼羅(マトリクス)なのだ。

そしてまた、妙なことに気がついた。

2次元ヘキサゴンの対角線は、図形の内側を通る対角線だが、3次元キューブでみると図形の表面(外側)の辺として見ることができる。

いいかえるならこれらの対角線は、内を通っているかと思えば外を通っており、外かと思っていたら内に入っているのである。同じ線をなぞっていても次元によって内と外が入れ替わる。「外かと思っていたら、じつは内であった」とは、まさに「クラインの壺」のようではないか。

 

じつはこの会社の前身は40年以上前に廃業した角本醤油醸造所である。

「角本」・・・これはキューブだ。しかも、4象限マトリクスである「田」の字を内包している。そして私の名前の中にも・・・。

 ・・・

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。<m(__)m>

 

人生への贈りもの、意識の野への贈りものに感謝して生きる

昨日は、娘の結婚式だった。素晴らしかった。感無量とはこのことを言うのだろう。

そして昨夜、2年前に何度も見たあの名作「素晴らしき哉、人生」が再放送されていたのでそのエンディング(自殺しようとしたジョージが天使に「彼が存在しなかった世界」を見せられたところからからラストまで)をまた見た。

 

nagaalert.hatenablog.com

2年前に感じたインスピレーションに加えて、今回は「贈りもの」ということが記憶に刻まれた。

贈りものという習慣には、人類進化の長くて深い意味が含蓄されている。

それは、「100分de名著」の今月のテーマ「野生の思考」が語る多くのなかの一つだ。

中沢新一は、(お金での)「交換」は、人と人を分離し、「贈与(贈りもの)」は人と人を結びつける、といっている。送る者と贈られる者の「絆」を強めるのが贈りものなのだ。

そして贈りものは受け取った者に返礼の気持ちを起こさせるという。これがお返しだ。

しかし誰にお返ししていいか分からないような「happyな出来事」という「贈りもの」もある。

そのとき私たちは「おかげさまで」などという。ジョンレノンは「お陰様:okagesama」という言葉を、日本語の中で一番美しいといって、もっとも愛したそうだ。

今朝しばらくの間じっと坐った後、そうか私は「人生の贈りもの」をいただいたのだ…と思った。

娘から贈られたように思えるが、参列された多くの方々、それは彼女の人生に大きく関わってきた、あるいは関わっていく人たちだが、その皆さんから贈っていただいた。

否それだけではなく、天国にいる父母、参加されていないが深く関わっていただいた多くの方々から贈っていただいた。

あるいはまた、いま生きている、こういう「時代」から贈っていただいた。

・・・

仏教3.0を哲学する」に取り組んでいて、「世界」を自分の内に感じることに挑戦している。

知覚を通じて私たちは「世界」を認識する。

「私は虫の声を聴く」とはあまり言わない。単に「虫の声が聴こえる」という。
「私は山を見る」とも「月を見る」ともいわない。単に「山が見える」という。あるいは「月が出ている」という。
「私は匂いを嗅ぐ」ではなく単に「匂いがする」といい、「私はそれに触れる」ではなく単に「なんか触ってる」などという。

日本語では主語が省略される。主体的な動作よりも、変化した状態を表現する傾向が強い、とか何とかというのをどこかで読んだ。

知覚を通じて世界は「意識の野」に現れる。

意識の野に「月が出ている」。意識の野に「雨音が聴こえる」。

阪急北千里駅から阪大吹田キャンパスへの通学路に見事な紅葉の名所がある。空間が輝くのだ。

意識の野に飛び込んでくるそうした知覚もありがたい「贈りもの」。

 

人生への「贈りもの」に感謝して生きる

意識の野への「贈りもの」に感謝して生きる

 

クリスマスの朝にいただいたインスピレーションもまた尊い「贈りもの」。

人類進化から見た本来の育児は「共同養育」

昨日(12月7日)のNHK朝ドラ「べっぴんさん」を見ていて、あーこれは「共同養育」のことを言っているなと思いました。

喜代:どうしても手のかかる子はいます。いい悪いやなくて、人の何倍も手のかかる子はいるんです。
昭一:どうしたらいいんでしょう?
喜代:何倍も手をかけたらいいんです。周りに大人がいっぱいいますやろ。誰が親やというのやなくて。手をかけて育てていけばいいんです。
(場面変わって)
すみれ:みんなで手をかけて育てていきましょう!
(こんな感じだったと思います)

少し前に「ママたちが非常事態!?」というNHKスペシャルがありました。最新の科学で子育てにまつわる問題を明らかにし、大きな反響があり続編も放送された番組です。

NHKスペシャル ママたちが非常事態!? ~最新科学で迫るニッポンの子育て~

その中で、アフリカはカメルーンで狩猟生活を営むバカ族の人々の子育てにスポットあてたシーンがあります。

彼らは集団生活を営んでおり、女性も、そして子どもを産んだ母親も採集のため森に入っていきます。

まだ幼い乳飲み子はどうするかというと、村に残る他の母親や女性に預けるのです。

こうしてみんなで子育てします。共同養育です。

チンパンジーは5年に1匹の割合でしか子どもを出産しません。その理由は生んだ母親がいつも一緒に子育てするためです。5歳になるまでそうすると言います。

しかし人間(ホモ・サピエンス・サピエンスである私たち)は、毎年子どもを産むことができ、飛躍的に人口を増やすことができました。

これは仲間で助け合って子どもを養育するシステムのおかげだということです。

現生人類は協力し合って大型動物を狩猟し、助け合って子育てをすることで食物連鎖の頂上に立てたのでした。そうした遺伝子が組み込まれています。

ですから一人で子育てをするというのは人類進化的にみて無理があるのだということです。

孤立感を感じ、不安で仕方なく、精神的にまいってしまうことが起こるのはある意味当然なのだということです。(実に7割の母親が孤立感をもっているといいます)

そういえば…私自身も年少の頃は、両親だけでなくおじやおばに手をかけてもらって育ったことを思い出しました。

こうした共同養育こそ本来の育児の姿だったのだという知識と価値観が浸透していくなら、2060年に人口が8500万人になるとも予想されている超少子化の進行に、いくらか歯止めがかかって行くかもしれません。

そんなことを思ったので書き留めました。

「経営マトリクス研究所」

姫路市においていた有限会社をこちら(大阪府茨木市)に移転登記し、ついでに商号も変えて、年初に再出発しようと先月からいろいろと考え抜いて、決めた社名が「経営マトリクス研究所」である。

「経営」はともかく、なぜ「マトリクス(orマトリックス)」なのか?

じつは私にとって「マトリクス」は第3期を迎えている。

最近、興味を持っている「仏教3.0」を真似させていただくなら、私にとってのマトリクスの現在は「マトリクス3.0」なのである。

第1期は中小企業診断士の勉強を始めた24歳の頃で、勤めていた金融機関のQCサークル活動で、営業と店頭業務のマトリクス組織を提案したことがある。今では有名な村田製作所の「マトリックス経営」を参考にしたものだった。6か月間ほど支店で実践することになり、多少の効果も出て、成果発表会では部長からお褒めの言葉もいただいたと記憶している。それが一番初めだろう。

その後、コンサル会社に移り、経営コンサルタントとして仕事をする中で、アンゾフの「商品市場マトリクス」や「PPM分析マトリクス」、「状況対応型リーダーシップのマトリクス」、「新QC7つ道具としてのマトリクス」…などなど、四象限を中心にビジネス・マトリクスを当たり前のように使用してきた。

マトリクスを活用することで戦略的思考が整理されるのである。それが第1期、いうなれば「マトリクス1.0」である。

そして第2期は、このブログのタイトルにもなっているケンウィルバーのインテグラル理論の活用としてはじまった。

下図に示した四象限(クワドラント)である。

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この統合的な視点をもたらすクワドラントは2002年頃から関わっている医療NPOの事業領域を表現するうえで大変便利なだけでなく、様々なインスピレーションを刺激してくれた。

現在のホームページのインテグラル・サポートというコンセプトにも活用され続けている。

http://www.es-bureau.org/

内部の打ち合わせで分からなくなったときは、いつもここに戻ると、私たちが何をしようとしていたのかを確認できる。「分からなくなったら四象限に戻れ!」は、ひとつの合言葉だ。

これが「マトリクス2.0」といえるだろう。

そして今、私にとってマトリクスという言葉は、第3期を迎えた。

この第3期マトリクスは、四象限とか行列で表現される思考のツールなのではなく、本来のマトリクスの語源(ラテン語Mater母+ix 子宮、母体の意)にあるような、ものを生み出す創造の源としての知性だ。

また古代インドの「母神」のサンスクリット語は「マートリカ」であるという。

赤ちゃんがいる母親の胎内という意味の「母胎」という言葉が、ぴったりくる感じがする。

ビジネス領域でいうならば、新ビジネスをインキュベートする孵卵器の働きともいえるだろう。

知性の全体を氷山に喩えていうなら、水面上に見える部分は言語化できる論理的知性である。それに対し、水面下に隠れていて見えない(無意識である)が、新しいものを生み出す母胎として働いている知性がある。中沢新一氏の表現を借りるなら「対称性の原理」で働く「流動的知性」(注)である。

「分別知」を下から支える「無分別智」ともいえる。

河合隼雄氏いわく、

マトリックスはまさに曼荼羅です。「胎蔵界曼荼羅」、英語にしたら「マトリックス」。(『仏教が好き』(朝日文庫)p263)

シンクロニシティの源でもある。

そして、このブログで何とか迫ろうとしている知性の真髄であり、それが私にとっての「マトリクス3.0」である。

「経営」とはもともと仏教用語で、人生をどう営むか?という生き方そのものを意味するという説がある。とするなら、

生きかた(経営)の元となる知性を生み出すことの探求… … …

 

「経営マトリクス研究所」を、どうぞよろしくお願いいたします<m(__)m>。


(注)「対称性の原理」…異質に見えるものの間に同質性を見出し、分離を乗り超えようとする働き。「流動的知性」…ネアンデルタール人にはなく現生人類にはじめて現れた象徴的思考。脳神経組織の異質な領域を横断的に高速で流れる。いずれも『対称性の人類学』(中沢新一著)参照

 

無我とは本質なき実存、主体としての空

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〈画像はintegrallife.comの Integral Mindfuinessより〉

藤田一照氏、永井均氏、山下良道氏鼎談『〈仏教3.0〉を哲学する』を見ております。

第1章に、「無我と本質と実存」という節があり、たいへん興味深く読ませていただきました。主に永井氏によるコメント部分で、本書全体のエッセンスをなぞるのに最適かと思われます。まずは要点を抜粋します。

無我とは何がないことか?

本質がない、ことである。

本質とは何か?

実存と対立する言葉である。

どちらもbe動詞

「~がある」が実存 

「~である」が本質 (一照さんはお坊さんである、という場合「お坊さん」が本質)

私には本質はないけど実存がある

「実存は本質に先立つ」(サルトル

何であるか(本質)は分からないけど、とにかくそれ(実存)がある

他人たちは本質(属性など)で見分けるが、どの人が自分であるかは直接的に実存しているこいつ、と識別できる。

このように識別ができるものとして「今」がある。端的に存在しているときが今。今しかない

同じように、私以外のものはない。というか他者を見て、ああいるな、何とかさんだとか思っているのはいつも私で、すべては私において起こる。それもただ実存しているだけで、特定のだれかであることがないような私において。

そういう意味で、わたしはただ実存しているだけで、今が今しかないのと同じ意味で、私も私しかなくて、それが全てなんです。


過去や未来はあるが、それらはみな今においてあるだけである。

私自身を他から識別してとらえる時、ただ端的に存在しているという事実によって、識別してとらえている。➡認識論的な考え方

本質(属性など)において自分と全く同じ人がいたとする。しかしその人が自分になるわけではない→私は本質ではない。

私が存在するとは、ある特定の本質を持った人が存在しているということではない➡存在論的な考え方

そういう内容、中身とは関係なく、なぜか端的に感じられる生き物が一つだけある。

今もおなじ。
現在というのは、こういうことが起こっているから現在であるというのではない。
今起こっていることは、内容を全く変えずに過去になる。
ただ過去になるだけで、全く同じ中身が過去になるだけ。
だから今であること自体は、起こっている内容とは関係なく端的に今であるだけ。

私であるということも、その人の中身とは関係なく、なぜかそいつが端的に私であるだけ。

私はその成立において端的に無我である。本質がなくもちろん実体もない。「何であるか」がない。

坐禅をやると本質とか内容というものが捨てられていく。そんなものは自分じゃないとずっと昔から思っていたから。それで残ったものが実存。(仏教用語の仏性)

良道氏の「私の本質は青空だ」
永井氏「私には実存だけがあって本質はない
本質とか内容とか中身じゃなくていわば空っぽ。
」といってもいい。
中身はあることはあるけど関係ない。

煩悩の浮き沈み、ああなりたいこうなりたいはみんな本質
悩みもみんなそこに入る
それを私という実存と区別して切り離す訓練(哲学的ワーク)をしているともっと楽に坐禅や瞑想に入れる

八正道の最初の二つが正見と正思であることに関係しているかも。

(最後の5行は藤田氏のコメントからの抜粋です。)

いかがでしたでしょうか?抜粋なので伝わりにくい点があると思われますが、琴線に触れる言葉がひとつでもありましたら是非本書をご一読ください。

私はこのブログでケンウィルバーの選集『存在することのシンプルな感覚』からも多くを引用してきましたが、共通した点が本当にたくさんあります。この原書のタイトルは"The Simple Feeling of Being Embracing Your True Nature"ですがこの言葉でウィルバーの言っている意味は、上の文章中で永井さんのいった「ただ端的に存在している」とか「端的に感じられる」という意味に大変近いと思われます。

ブログのカテゴリー分類として使用している、Witness(目撃者)、Self(大文字の自己)、Seer(見者)、Awareness、などは『存在することのシンプルな感覚』のキーワードですが、文脈によるニュアンスの違いこそあれ、永井さんのいう「実存」にほぼ重なっているといえます。

ですから、いわば空っぽ、「空」といってもいい、という永井さんの表現を目にして、冒頭の画像ー顔が円相(実存)で、おそらく月を背にして(いや月に向かってでしょうか?)の坐禅ーがぴったりという気がしました。

そして、この実存は私が好んで使っている表現としては「主体としての空(くう)」です。

今後も積極的にウィルバーの言葉と『仏教3.0を哲学する』の関連について取り上げて行きたいと思います。