ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

12因縁を断ち切るマインドフルネス

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最近、身の回りで起こっていることが「過去にこういうことが起こったので、今になってこうなってしまった」というようなストーリーで解釈されることがままあり、その度に、心の奥で、そうではあるが、いやいや違う、そうではない、と感じていました。

それが、2013年4月29日のブログ『自由が不自由を感じさせる逆説』に書いたことに大いに関連していたことを思い出し、「我が意を得たり」と膝を打ち、得心しました(過去の自分で書いたブログに「我が意を得たり」もないですが、そこで引用した文章に再びそう感じました)。

nagaalert.hatenablog.com

この記事はフランシスコ・ヴァレラ著『身体化する心』の一節を取り上げたものでしたが(前回のブログで「オートポイエシス理論」提唱者としてヴァレラの名を出しましたが、それに触発されたのかもしれません)、今回はその内容のうち、特に「12因縁連鎖を断ち切るのがマインドフルネスである」という点に重点を置いて述べたいと思います。

ここでは、12因縁を逐一説明することはしませんが、上図のように円環をなしています。

(以下『身体化する心』より引用)
この輪廻(samsaraサンサーラ)と呼ばれる条件づけられた人間経験の円環は、容赦なき因果律によって永久に回転する不満足の歯車として視覚化される。・・・

悟りを開いたブッダは12因縁の連鎖を探求し尽くして、この連鎖を断ち切る方法を希求した。過去については手の施しようがない。過去に遡って無明と行(為)を消せはしないのだから。・・・感覚が生じる感情の状態(受)も、それから生じる渇望(愛)も避けられない。しかし渇望から執着(取)は不可避なのだろうか、と。・・・
あらゆる瞬間に、正しく鍛えられた三昧を実行することによって、人は自動的な条件づけの連鎖を断つことができる。渇望から執着へ、さらに後続するものへ必ずしも自動的には移行「しない」と。(引用ここまで)

 

「三昧」とはマインドフルネスのことです。
「渇望(愛)」は8番目の因縁、「執着(取)」は9番目の因縁です。マインドフルネスを実践することで8から9への因縁連鎖を断ち切ることができるといいます。

(以下、引用)
三昧/覚の修行者は、条件づけられた自動的行動パターンを三昧により断つことができるようになる(特に、渇望の生起による自動的な執着から解放される)。これがさらに三昧になる能力を高め、注意の領域を覚(アウェアネス)にまで拡大させ、無明の根源に迫ってゆく。このアウェアネスが経験の本質に対するより深い洞察をもたらし、それにより無明と自我中心的な意思作用に基づいた、無思慮な常習パターンの全サイクルを放棄するさらなる欲求と能力とが培われる。(引用ここまで)

このことは、「弁証法行動療法(DBT)」の真髄なのではないか。最近勉強を始めたばかりなのですが、そう思います。

「無思慮な常習パターン」とは、わかりやすい例でいうとニコチン中毒や、過度のアルコール依存、ギャンブル依存症などです。「渇望(愛)」がムクムクと起こり、それを取らずにいられなくなることが「執着(取)」です。

マインドフルネス(三昧)は、その「渇望(愛)」の生起した瞬間に「今だ!」というように気づきを入れます。

そして判断を交えず、その衝動、感覚のありのままを観察します。

マインドは理由をつけて摂取することを、正当化しようとするでしょう。「今回だけ」などと囁きます。

そうした思考が生起していることも、「また頭がしゃべりだした!」と観察します。

呼吸を上手に使って、身体の感覚(口、手、頭、胸・・・)を見守ります。

しばらくすると、どこかの感覚がじわりと変化し始めます。

衝動がさっきよりも弱くなったことを感じ取ります。

以上、私自身が禁煙(もう16年も前なので絶煙?)した時のプロセスは、こんな感じでした。

アドラー心理学の言葉でいうところの原因論にもとづいて、見かけの因果律でストーリーを作っている限り、その連鎖であるサンサーラから逃れられないというのが、最も大切なところでしょう。

世界的な仏教学者David. Loyは著書The World is made of StoriesのなかでI AM Made of Storiesと書いています。
(以下引用拙訳)
ストーリーは私の人生に、意味を付与した構想を与えます。・・・私の性格は私の演じる役割によって構築されます。異なる物語では、異なる役割を私は演じますが、社会において少しずつ習慣的な態度が身につき、自己のアイデンティティを形成しつづけます。これらのストーリーにおいて自分の役割を変更することは難しくなります。ダートトラックをぐるぐる回るカーレースのように、轍は深くなります。
 サンサーラ―この苦しみの世界は、仏教によると―文字通りぐるぐる回ることを意味します。・・・
私たちの喜びも悲しみも、笑い声も涙も、楽しみも苦痛も、愛も恐れも、ひらめきも失望も―すべてストーリー化されたものです(all are storied)。
(引用ここまで)

そしてそのすぐあとの節でこんどは全く逆にI AM Not Made of Storiesと書いています。

(以下引用)
ストーリーなしには、自己はありません。サマディ瞑想の間に全てのストーリーを手放すとき、私は無(no-thing)になります。この無は何と言われているのでしょうか?それは、ネティ、ネティ―「あれではない、これでもない」です。・・・
仏教徒のカルマの理解は、自己変容への鍵として意図性を強調します。・・・なぜなら私はその物語であり、かつまたその物語ではないからです。私はその物語です。なぜならそんなストーリーが私の自己感覚を構成しているから。しかしもし自己がその物語でしかなかったなら、その物語を捨てて、新しい物語を獲得する可能性はないでしょう。変化するアイデンティティのためには、その物語の別の何か、それによって縛られない何かがあるべきなのです。
その「他の何か」を描こうとする企ては、私のストーリーの内側でそれに役割を与えます。しかしながらそれはこのように固定化できない(it cannot be fixated)のです。それは特定の物語の部分ではありません。それが物語に無常であることを許す(allows narratives to be mutable)ものだからです。(引用ここまで)

三昧(マインドフルネス)/覚(アウェアネス)の実践によって、ストーリーあるいはぐるぐる回り続けるサンサーラを断ち切ることができます。
それが、I AM Not Made of Storiesでしょう。

三昧/覚の実践により、12因縁連鎖、特に8番の「渇望(愛)」と9番の「執着(取)」の間の連鎖を断ち切ることができます。

ストーリーに囚われている間は、因縁連鎖を断ち切れません。原因論、見かけの因果律に縛られているうちは、自由になれないのです。

習慣的で自分が取りがちなストーリーに気づきましょう。

渇望が執着へと繋がっていく様子を観察しましょう。

言い訳をしたがる思考そのものを見つめましょう。

マインドフルネスの実践によって12因縁連鎖を断ち切り、新しいストーリーを身につけること。それは可能なのです。

 

 

ポイエーシス的な働き方

NHK「100分de名著」昨年12月の名著はレヴィ=ストロースの『野生の思考』であった。

 この概念を伝えるのは難しいのではないかと思われたが、中沢新一氏の巧みな解説と伊集院氏のコメントがよく効いて興味深く見ることができた。今朝その第4回目を見直していて、特に「ポイエーシス」について書きたい気持ちになった。

 「オートポイエーシス」という言葉なら知っていた。かなり昔に自己組織化の理論について書かれた本で目にしたと記憶している。このブログでも取り上げたことのあるフランシスコ・ヴァレラが理論の提唱者だ。しかし「ポイエーシス」(英語:poiesis)そのものについてはよく知らなかった。この言葉、もとはギリシャ語だという。

 単語をネット検索すると

 ギリシャ語で「制作」や「生産」などを意味する語。アリストテレスはポイエーシスを、自然を対象とした制作と捉え、ポイエーシスと対をなす概念として人間社会を対象としたプラクシス(実践)という概念を唱えた。

 などと書かれている。

 

以下番組のコメントとそのテキストから抜粋引用する。

フランス語で「労働」を意味するトラヴァイユ(travail)という言葉には労苦という意味があり、厭わしい時間を耐えねばならないというニュアンスがあるが、メラネシアのいわゆる未開社会の言語にはtravailにあたる語や概念自体がない。

そして古代ギリシャにもtravailに相当する言葉はなかったらしい。

 古代ギリシャでは働くことを、「プラクシス」と「ポイエーシス」という2つの言葉で表現していた。

プラクシスは、英語のプラックティス、すなわち実践のことで行為する「人間が自分自身の目的のために事物を使用する」という意味だが、ポイエーシスは、「事物それ自体の目的のために作り出す」ことだ。

 例えば、陶器職人や木工職人が、何か有用なものを作る場合、プラクシスというよりポイエーシスである。

 あるものを自分の目的のために変形して使うのではなくて、その中にすでに存在する形を外に取り出すと考える。それは「土や木が望んでいることを実現する」という考え方に近く、自然物の中に隠されている目的を外に取り出して、役に立つ用具にしたてるという作業が職人の仕事であり、ポイーシスなのだ。

 そしてレヴィ=ストロースは、日本の職人たちが作った様々な陶器や塗り物、着物や家具を注意深く観察し、ポイーシス的労働の考え方が生きていると思った。

 それはまさに、柳宗悦(むねよし)が、「民藝」と呼んだものに通じる。職人が

 

受動的に本質を取り出す

 

すなわち、自然物の中に隠れている本来の機能を受動的に取り出して民藝品を作ること。それはまさにポイエーシスだ。(引用ここまで)

  

例えば木であれば、樹種はもちろん、曲がり方や年輪、幹など材の性質などをよく見たうえで素材に適したものを作る、その特性を生かせるように材を用いるという発想である。

 柳宗悦は、これを民藝の「用の美」といったのだそうだ。

 そしてこの職人の働き方の話を聞いた時、島根県温泉津町の下駄職人だった妙好人「才市」のことが頭に浮かんだ。「100分de名著」のテキストをみると、やはり浄土真宗絶対他力と民藝思想の結びつきについて書かれてある。日本の里山も「ポイエーシス」の働きを借りて作られているという。

 ポイエーシス、日本語でいえば、はからいなき「はたらき」、それは鈴木大拙のいう「日本的霊性」の核心部だと書かれている。名言だ。

 

ポイエーシス的な働き方・・・。ミヒャエル・エンデは禅に造詣が深かったというが『モモ』にでてくるベッポ爺さんの掃除の仕方や、藤城清治さんが作品の影絵を切るときの境地にも通じるものがあるだろう。

ある種のゾーンに入った状態ともいえるかもしれない。

 自分が行っているというより、自分を通じて起こっているという感覚。

 私は、学生時代に岩登りが好きで、今ではかなり知られるようになったボルダリングに熱中していた。

 数メートルの高さの花崗岩。クラックやオーバーハングを下から見ながら体のモーションをイメージする。足の位置やグリップの角度をあれこれ想像して取り付く。何度も失敗し、飛び降りる。指の皮に血がにじむ。翌日も翌日も。しかしそのうちに、ふっと体が軽くなり核心部をクリアーできる。勝手に体が動くのである。

 ものづくりではないが、これもポイエーシスだろう。先の例でいうなら木が岩で、ボルダリング自体が作品である。岩の形状とその形に合わせて瞬間瞬間に創造されるモーション。その協同作業がボルダリングという作品を創造する。

 

 そうした働き方ができるならそこには「生命の躍動」が感じられるはずだ。歓喜がほとばしる。他者から認められることがなくても内なる充実感に満たされ楽しい。そんな時ほど創造的な仕事ができているものだ。

 記憶に残る良い仕事とは共通してこうした印象を残している。あの時の報告書、あの時の企画書、あのプレゼンテーション、あの冊子の原稿・・・。

 「やりがい」とは「創造」、「貢献」、「向上」のトライアングルで生まれるというのが若かりし頃の持論であったが、それに加えて「自ずと成る」イメージが大切なのではと以前このブログ(2013/3/17:観察者としての自己の成長)でも書いた。

 そのニュアンスに「ポイエーシス」は、ピッタリである。

 

ポイエーシス的な働き方

 

日本のものづくりに生きている理想的な働き方として大切にしていきたいと思う。

「実存としての自己」を直覚させる「あなたはあなた」

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「かぶき者慶次」という時代劇を見た。関ケ原の戦いの後、石田三成の子を前田利家の甥にあたる前田慶次がかくまって、上杉家の領地である米沢の地で秘かに育てているという設定である。前田慶次は実在した人物だが、石田三成の子はドラマでの名は新九郎といい、これはフィクションだ。もちろん米沢でそうした子を前田慶次が育てたという史実は残されていない。とはいえ、面白かった。

途中で、これは・・・「実存」なのでは・・・と思った場面があったので振り返ってみたい。

それまで寺に預けられていた8歳の新九郎(しんくろう)を前田慶次(けいじ)が迎えに来る。新九郎は自分の父が石田三成であることは知らない。慶次も自分が父であると子に伝え米沢に連れて行き、育てる。
18歳も過ぎた頃、「お前の実の父は、今は亡き石田三成様である」とついに告げられる。以下は、その翌日の場面である。

慶次の実の子の佐乃(さの:17歳)が、事実を知って混乱し落ち込んでいる義理の兄である新九郎に云う。

佐乃:
兄上は今までの自分さえもいつわりだとお考えなのですか。

信じていたことが違っていたからと言って、親しき仲まで断ち切って別人となってしまうおつもりですか。

誰の子であろうとも〈兄上は兄上〉なのではないですか。

私とて戸惑っております。まことの事を知ったからといって、兄上という人が変わってしまったわけではない。

〈兄上は兄上〉です。

新九郎:
・・・たしかにお前のいう通りだ。

〈俺は、俺〉

受け入れるには、しばらく時間がかかりそうだが・・・。

― そして数日が経ち、新九郎はこう言います。

新九郎:
自分が生きていることは、皆の迷惑になる。俺がいなくなることが一番いいのかも、と考えた。だが嘆いていても何も変わらぬ。俺がこうやって生かされているのも、これからの世で何かをなすためだと思うようにした。

 

〈 〉で強調した文字の部分が、おそらく頭のどこかに引っかかっていて、その場面を見た翌日ぐらいに「あーっ、これは、もしや」と思った。

 

もう少し丁寧に見てみよう。

事実を知って混乱し落ち込んだ新九郎は自分を見失ったのである。

自分を見失ったとは、「コンテンツとしての自己」、永井氏の言葉でいう「本質としての自己」、ACTの言葉でいうなら「概念としての自己」に同一化したのである。しかしそのコンテンツは受け入れがたい厳しいものであった。ゆえに大きな葛藤を生じたのである。

(ここでいう「コンテンツとしての自己」とは、私たちが普通に自己紹介するときに話す自分の内容のことで、自分の属性や信念、自伝的記憶などが含まれる)

しかしながらこのコンテンツは、仏教では幻想であるという。無明のなせるワザだ。

山下良道氏の言葉でいえば「映画を見ている」にもかかわらず、「映画を見ている」ことを忘れているのだ。

それに気づかせてくれ、その呪縛の鎖を断ち切ってくれたのが、佐乃がいった「誰の子であろうとも〈兄上は兄上〉なのではないですか」という言葉だ。

佐乃は目の前にいる新九郎に「〈兄上は兄上〉なのではないか」といった。すなわち、「あなたはあなたではないか」と言っているのである。その後、新九郎は変わっていく。なぜそんな一言が大きな力をもちえたのだろう?

考えてみれば「あなたは、あなた」とは、不思議な言葉である。

意味としては何も云っていないに等しい。

しかしながらこのような文脈で、「あなたはあなただ」、と云われた時、私たちの心の奥にある何かを動かす力を、この言葉はもっているような気がする。

むしろ合理的な意味を成さないが故に、無意識下に沈んでいたものを励起させるのではないか。

こんなことを考えていたら、また新たなシナプスがつながった!

ウィルバーのいうI AM もしくはI AMness は、まさにこれと同じではないか。

わたしは「何である」とは言っていない。わたしはある。わたしが「ただ存在している」。

永井均氏のいう、〈私〉とは、「ただ端的に存在しているこの私」、のことだった。

端的に存在しているこの私、すなわち「実存としての自己」を呼び覚ましてくれる言葉、それが、「あなたはあなた」なのだ。

私は、上杉家にとって迷惑な存在となりかねない石田三成の子だ。しかし「あなたはあなただ」といわれたとき、そうした私とは違うもう一人の本当の〈私〉が立ち上がる。「そう、わたしは、わたしだ」「だれがどう云おうとも、わたしはわたしでしかない」

上杉家にとって迷惑な存在となりかねない、とは「概念としての自己」である。「あなたはあなただ」という言葉は、その「概念としての自己」を破壊したのだ。それこそ「かぶき者」の真骨頂ではないか、と思った。

「かぶき」の前々身ともいえる猿楽の翁は、まさにこの役割を担っていたはずである。
中沢新一著『精霊の王』参照、後日また取り上げたいテーマの一つだがここでは詳細に触れない)

 

「概念としての自己」に囚われ、そのコンテンツの雲の中に頭がすっぽり入ってしまっていた「わたし」を目覚めさせ、「実存としての自己」を直覚させたのだと思う。

「実存としての自己」を直覚させる「あなたはあなた」。誰かに言われたことはありませんか?

〈自己=世界〉と「常に現前する気付きの意識」

仏教3.0を哲学する』のp110、P111に描かれている第五図、第六図がとても興味深いです。この絵にあるような「自己ぎりの自己」すなわち〈自己=世界〉を実感を持って確立するためにはどうすれば、あるいは「どうあれば」いいのだろうかということを改めて考えました。

そして今朝、坐っていて、やっぱりこれだと思い至ったのは、ケンウィルバーのいうEver-Present Awarenessです。「常に現前する気付きの意識」と松永太郎さんは訳されました。

まず、『仏教3.0を哲学する』の第五図は、次のように描かれています。

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これは、山下良道氏いわく「映画の中に入ってしまわないで、映画を見ている自分に気づいている」状態です。

以下、永井均氏の言葉を引用します。

「わが生命」は中に入っていないで、外に出ているんです。その一員として何かヤリトリはしていないで、その様子を外から見ているんですね。だから、「たんなる人間としての自分ではない」とも言われています。

じゃあいったい何だと問われたなら、もちろん何でもない。本質ではなく、存在、実存そのものです。何でもないのですから、もちろん誰でもないです。

一員として投げ込まれて、分別や比較や価値づけによって他人とヤリトリはしていないような、だから体験する自己と体験される世界の区別がもはやないような、独我的=無我的な自己、つまり〈自己=世界〉であるような自己で、これが最後の第六図に表されている「自己ぎりの自己」であるわけです。(引用ここまで)

 

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坐禅している人の頭の位置にあるスクリーンに描かれている絵は第四図として出てくるAとBがいっしょに描かれていますが、
「アタマが展開した世界に住む人間」
A 逃げたり追ったり
貧乏・不幸から逃げ、金・幸福を求める
B グループ呆け
思想や主義で集団を形成して争う
例)ユダヤ教徒 VS マホメット教徒  於: エルサレム
と書かれています。

人間は言葉を発明したせいで「アタマが展開した世界」に住んでしまっている。個人としては、A 逃げたり追ったりし、グループでは、B 思想や主義で集団を形成して争う、ことになる。そうしたことをある種、運命づけられているといえます。

「アタマが展開した世界に住む」とは山下氏のいう「映画のなかに入ってしまっている」ことで、これは熊野宏昭氏のいう「思考の黒雲の中に巻き込まれている」こと、私の用いてきた喩えでは「風船の中、あるいは吹き出しの中に頭がすっぽり入ってしまった」状態を言います。

それを永井氏は中に入っていないでその様子を外から見るのが第五図だといっています。
雲から出て思考という雲を外から見ること。風船あるいは吹き出しから頭を外に抜くことです。

 

では、このような「あるがまま」の認識は、どのようにすれば達成できる、あるいは獲得できるのでしょうか?

ケンウィルバーの『存在することのシンプルな感覚』の第9章は、次のようなことばで始まります。

「スピリット」はどこにあるのだろうか?いったい聖なるものとみなされることが許されるものとは何か?「存在の基底」とは何か?何が究極の「神聖なるもの」なのか?

第9章は、「常に現前する意識の輝くような明晰性」というタイトルで、英語では
The Brilliant Clarity of Ever-Present Awareness
となっています。その第一節から、以下に引用します。

もっとも高次の形態においては、「スピリット」の「偉大な探求」という形をとる。わたしたちは、罪や幻惑や二元論に満ちた目覚めていない状態から、もっとスピリチュアルな状態へ移行したいと思う。私たちは「スピリット」のないところから「スピリット」のある場所へ移行したいと願うのである。

しかし、「スピリット」のない場所はない。・・・
「スピリット」が不在の場所などない。・・・

もし「スピリット」が偉大な探求の未来の産物として見出されることがないのであれば、選択肢は、たった一つしかない。

「スピリット」は現在、たった今、完全に、完璧に、現前しているのであり、そしてあなたは、それに完全に、十全に気づいているはずだ、ということである。・・・

覚醒それ自体、気付きの意識(awareness)それ自体は、いつも完全に、十全に、現前しているのである。・・・

現在に私たちの気付きの意識(awareness)のうちに、すべての真実が含まれているに違いない。・・・

あなたが、今、見ているものが、答えである。「スピリット」は100%、あなたの知覚の中にある。・・・文字通り、100%の「スピリット」があなたのアウェアネスの中にある。

そして、秘密とは、常に現前しているこの状態を認識することであって、未来において「スピリット」が現前するように仕組むことではないのである。

この、常に、すでに現前する「スピリット」をありのままに単に認識することこそが、偉大な非二元の伝統なのである。(引用ここまで)

 いかがでしたでしょうか?

いきなり「スピリット」という単語が出てきましたが、『仏教3.0を哲学する』の文脈では「実存」という単語に置き換えてもいいかもしれません。

どのように達成されるのでしょうか?と自問しましたが、その答えは「達成」するものだという前提が間違っているということです。同時にどのように獲得するかという問いも間違っています。それは獲得できません(無所得)。すでに獲得されているものだからです。達成するものなのでもなく、「ありのままに単に認識すること」だと書かれています。

秘密とは、常に現前(ever present)しているこの状態を認識すること。
すなわち「すでに常に現前する気付きの意識」Ever-Present Awarenessにあるのだということです。

ケンウィルバーがよく引く喩えとして、日曜日の新聞などに出ている「隠し絵」があります。「この景色の中に20人の有名な人の顔が隠されています。誰だかわかりますか」というあの隠し絵です。

その顔はケネディだったり、リンカーンだったり、最近ではトランプ大統領であったりします。私たちはまっすぐ、その顔を含めて絵全体を見ているのですが、はじめはそれと認識できません。しかし一度それを認識すると、それ以降はもう簡単に隠れた顔を認識できるようになります。

そしてこの隠し絵がもはや隠し絵でなくなるような認識を得ると、「A逃げたり追ったり」、「Bグループ呆け」の夢から覚めることができるということなのでしょう。

〈自己=世界〉は、「常に現前する気付きの意識」として認識されるのだと思いました。

生きかた知縁カフェ 4月度はお休みです。

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脳科学の視点を取り入れ、ウィルバー哲学、マインドフルネス、ACT、アドラー心理学対称性人類学などを横断的に学ぶ勉強会です。ソーシャルビジネス、共有型経済、贈与経済への展開も視野に入れ、交流します。


【生きかた「知縁」カフェ 4月度はお休みです】

◆定員 8名  

◆参加費 3,000円/回あるいは参加費に相応するモノ、サービスでも可。 
◆会場 モノレール阪大病院前の「経営マトリクス研究所」のオフィス        (兼エスビューロー事務所 http://www.es-bureau.org/

◆主催 (有)経営マトリクス研究所 f:id:nagaalert:20170101141322j:plain

◆申込み m-nagasawa@hcn.zaq.ne.jpまで


【生きかた「知縁」カフェとは】
昨今、「生きかた」に迷い悩む人々が増えているといいます。本カフェは、毎月1回、第3土曜日に開催します。学びの場であるとともに、知の交流の場、そして社会の課題を解決するNPOやソーシャルビジネス(SB)、シェアリングビジネスが孵化する場です。先人の知恵と最新科学の動向を踏まえ、どう生きるか、何ができるかのヒントを見つけましょう。


講師・ファシリテーター 中小企業診断士 長澤正敏(ながさわまさとし)
参考:心理哲学系ブログ『ウィルバー哲学に思う』http://nagaalert.hatenablog.com/


次元を行き来するヘキサキューブ、元旦の夢

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新年あけましておめでとうございます。

元日に新しい会社の商号「経営マトリクス研究所」のマークの初夢を見た。これは正夢である。

2次元平面に描く正六角形(ヘキサゴン:hexagon)は、3次元の立方体(キューブ;cube)にも見えるという考えてみれば不思議な図形だ。

これは対角線が描かれている正六角形である。

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しかし同時に、3次元の立方体である。すなわち六角形と立方体の性質を併せもつ、いわばhexa-cube(ヘキサキュ―ブ)である。

この性質は「経営マトリクス研究所」の理念をうまく語るのではないか。

まず対角線に下図のような矢印がついていると想像した。するとこの六角形は言語的知性であるマインドの象徴となる。
というのも私たちの言語的知性は、良いか悪いか、好きか嫌いか、損か得か、正しいか間違っているか、美しいか醜いか、苦か楽か…などなど常に対極のどちらであるのか判断しようとしてじっとしていない。モンキーマインドといわれるゆえんでもある。こうした対極をもつ有形のマインドを頂点をもつ図形で表現できるだろう。

 次にこの形はオレンジ、グリーン、イエローという色の側面をもつ立方体として描かれる。

オレンジでは「合理主義的世界観」を、グリーンでは「多元主義的世界観」を表し、イエローではそれらを統合する「統合的システムの世界観」を表す。

(スパイラルダイナミクスの色分類:参照「万物の理論」ケンウィルバー著)

そして、このキューブの背景には、円が描かれている。

円を背景としてヘキサキューブが描かれている。
この円の内側の色は、ターコイズトルコ石)色であり、「統合的全体的世界観」を表現している。

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キューブの背景に描かれているこの円は「実存」であり、禅でいう「円相」のイメージだ。

この図で「実存」である円相からマインドである六角形がずれ落ちているのは、「身心脱落」(body-mind drops)を表現したかったからだ。(2011年11月2日のブログ参照)

身心が脱落することで、その背景にあった「存在することのシンプルな感覚」である「実存」が露わになる。それは「観察者としての自己」だ。

そして身心脱落し、マインドとの「脱同一化」を果たしてこそ、ターコイズの発達段階である。それが円相のトルコ石色に込められている。

(ヘキサキューブであるマインドと同一化しているのはオレンジ→グリーン→イエローの価値観までである。)

よって、この対角線のある六角形でありキューブでもある形は、色のついた「有形のマトリクス」といえるだろう。

一方、実存である円相は、色のついた映像の背景として、その基体として、いつもありながら普段は気づくことの少ないスクリーン(あるいは「青空」)である。それは、言語的知性を生み出した流動的知性であり、創造の源としての「無形のマトリクス」である。

さらにこの大きなヘキサキューブ形の中には、無数の小さなヘキサキューブがぎっしり詰まって並んでいると想像する。

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じつは六角形とは隙間なく詰めることのできる数少ない図形のひとつである。6つの辺がそれぞれ他の六角形に隣接する。立方体としてもまた、それぞれの6つの面が他の立方体と隣接している。
すなわち、他の6つの形から絶えず影響を受けるとともに、自らも他の6つのヘキサキューブに影響を与え続け、瞬時に全体(大きなヘキサキューブ)に伝播する。これはまさに「複雑系」であり「縁起」である。

シンクロニシティの土壌であり、単独では自性を持たない空性としての胎蔵界曼荼羅(マトリクス)なのだ。

そしてまた、妙なことに気がついた。

2次元ヘキサゴンの対角線は、図形の内側を通る対角線だが、3次元キューブでみると図形の表面(外側)の辺として見ることができる。

いいかえるならこれらの対角線は、内を通っているかと思えば外を通っており、外かと思っていたら内に入っているのである。同じ線をなぞっていても次元によって内と外が入れ替わる。「外かと思っていたら、じつは内であった」とは、まさに「クラインの壺」のようではないか。

 

じつはこの会社の前身は40年以上前に廃業した角本醤油醸造所である。

「角本」・・・これはキューブだ。しかも、4象限マトリクスである「田」の字を内包している。そして私の名前の中にも・・・。

 ・・・

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。<m(__)m>

 

人生への贈りもの、意識の野への贈りものに感謝して生きる

昨日は、娘の結婚式だった。素晴らしかった。感無量とはこのことを言うのだろう。

そして昨夜、2年前に何度も見たあの名作「素晴らしき哉、人生」が再放送されていたのでそのエンディング(自殺しようとしたジョージが天使に「彼が存在しなかった世界」を見せられたところからからラストまで)をまた見た。

 

nagaalert.hatenablog.com

2年前に感じたインスピレーションに加えて、今回は「贈りもの」ということが記憶に刻まれた。

贈りものという習慣には、人類進化の長くて深い意味が含蓄されている。

それは、「100分de名著」の今月のテーマ「野生の思考」が語る多くのなかの一つだ。

中沢新一は、(お金での)「交換」は、人と人を分離し、「贈与(贈りもの)」は人と人を結びつける、といっている。送る者と贈られる者の「絆」を強めるのが贈りものなのだ。

そして贈りものは受け取った者に返礼の気持ちを起こさせるという。これがお返しだ。

しかし誰にお返ししていいか分からないような「happyな出来事」という「贈りもの」もある。

そのとき私たちは「おかげさまで」などという。ジョンレノンは「お陰様:okagesama」という言葉を、日本語の中で一番美しいといって、もっとも愛したそうだ。

今朝しばらくの間じっと坐った後、そうか私は「人生の贈りもの」をいただいたのだ…と思った。

娘から贈られたように思えるが、参列された多くの方々、それは彼女の人生に大きく関わってきた、あるいは関わっていく人たちだが、その皆さんから贈っていただいた。

否それだけではなく、天国にいる父母、参加されていないが深く関わっていただいた多くの方々から贈っていただいた。

あるいはまた、いま生きている、こういう「時代」から贈っていただいた。

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仏教3.0を哲学する」に取り組んでいて、「世界」を自分の内に感じることに挑戦している。

知覚を通じて私たちは「世界」を認識する。

「私は虫の声を聴く」とはあまり言わない。単に「虫の声が聴こえる」という。
「私は山を見る」とも「月を見る」ともいわない。単に「山が見える」という。あるいは「月が出ている」という。
「私は匂いを嗅ぐ」ではなく単に「匂いがする」といい、「私はそれに触れる」ではなく単に「なんか触ってる」などという。

日本語では主語が省略される。主体的な動作よりも、変化した状態を表現する傾向が強い、とか何とかというのをどこかで読んだ。

知覚を通じて世界は「意識の野」に現れる。

意識の野に「月が出ている」。意識の野に「雨音が聴こえる」。

阪急北千里駅から阪大吹田キャンパスへの通学路に見事な紅葉の名所がある。空間が輝くのだ。

意識の野に飛び込んでくるそうした知覚もありがたい「贈りもの」。

 

人生への「贈りもの」に感謝して生きる

意識の野への「贈りもの」に感謝して生きる

 

クリスマスの朝にいただいたインスピレーションもまた尊い「贈りもの」。