ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

財務省官僚にみる「エルサレムのアイヒマン」現象

前回に引き続き、森友問題における財務省理財局の対応について感じたことを書きます。

 昨年9月に放送された、100分de名著『ハンナ・アーレント』の第4回でナチスの中佐でユダヤ人の強制収容所移送の責任者であったアイヒマンの裁判のことが取り上げられていました。

このアイヒマンと今回の理財局の対応が重なって見えるのは私だけでしょうか。

 

アドルフ・アイヒマンとはナチス親衛隊(SS)の中佐だった人物で、ユダヤ人を強制収容所に移送し、管理する部門の実務責任者でした。アルゼンチンに逃げ延びていた彼が拘束されエルサレムの法廷で裁判にかけられた様子が、『エルサレムアイヒマン』のなかでアーレントによって描かれています。

 アイヒマンは多くのユダヤ人を絶滅収容所ガス室へ送ります。殺されたユダヤ人の数は数百万人にものぼるといわれていますが、効率よく、ミスなく淡々とその仕事をこなしたといいます。

 

驚くべきことは、彼は凶悪でも残忍な人間でもなかったことです。

 

この第4回の放送のタイトルは「悪は陳腐である」です。

 

(NHK100分de名著テキスト『ハンナ・アーレント 全体主義の起原』p89-90より引用)

若い頃から、「あまり将来の見込みのありそうもない」凡人で、自分で道を拓くというよりも「何かの組織に入ることを好む」タイプ。組織内での「自分の昇進にはおそろしく熱心だった」とアーレントは綴っています。

そんなアイヒマンの発言のなかで、アーレントが特に注目し、驚かされもしたのが、その徹底した服従姿勢でした。しかも彼は、上役の「命令」に従っただけでなく、自分は「法」にも従ったのだと主張しています。

・・・

人殺しが「罰」せられるのは、それが「法」に反する行為だからです。しかしアイヒマンは、自分は法による統制を尊重し、法を守る市民の義務を果たしたと主張しました。

・・・

アイヒマンにとっての「法」とはヒトラーの意志です。ヒトラーという法に恭順しただけでなく、彼は自分がまるで「法の立法者であるかのように」行動していました。つまり、上から言われたから仕方なくやったのではなく、法の精神を理解し、法が命ずること以上のことをしようと腐心していたということです。その「おそろしく入念な徹底ぶり」は「典型的にドイツ的なもの」であり、「完璧な官僚に特徴」的なものであったとアーレントは指摘しています。(引用ここまで)

  

「残忍な人間による行為」ではなく、「上役であるヒトラーの意志を理解し、命ぜられる以上のことを入念に行おうとした人間による行為」だったことが、驚きなのだというのが「悪は陳腐である」ということの意味でしょう。

 アイヒマンの価値観と仕事への姿勢が、今回の森友問題の理財局の対応と重なります。

 

ウィルバーのインテグラル理論の「統合的なサイコグラフ」が頭に浮かびました。

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統合的サイコグラフとは認知(Cognitive)、自己(Self)、感情(Emotional)、道徳(Moral)、人間関係(Interpersonal)等といった多重知性のラインを横軸に並べ、縦軸では発達段階(レベル)を示します。「認知のレベルは高いが感情のラインにおいては相対的に低いレベルにとどまっている」などといったように、ひとつの知性ラインだけではなく、複数の知性ラインを並べて表現しようとするもので、認知能力だけでは測りきれない全人格的な知性を捉えるようとするとき、大いに役立つツールとなります。

発達ラインと多重知性 - ウィルバー哲学に思う

そして、この森友問題に関与した理財局の官僚の統合的なサイコグラフをイメージするなら、「認知のライン」ではかなり高いレベルにあるが、「道徳(Moral)のライン」では相対的に低いところに留まっているのではないか、と考えられます。

 

もう少し丁寧に掘り下げてみます。道徳(Moral)の発達段階とはどうなっていたでしょうか?以前このブログで取り上げたコールバーグ著「道徳性の発達と道徳教育」から復習してみます。

(前慣習的段階)

第1段階 罰回避と従順志向

正しさの基準は自分の外にあって、他律的。親や先生のいうとおりにすることが正しい。処罰をさけるために規則に従う。

第2段階 道具的互恵、快楽主義 

自分にとって得か損かの勘定が正しさの基準。ほうびをもらい、見返りの恩恵を得るなどために行動する。

 

(慣習的段階)

第3段階 他者への同調、よい子志向

身近な人に嫌われたり非難を受けるのをさけるために行動する。

第4段階 法と秩序の維持

社会の構成員の一人として社会の秩序や法律を守るという義務感から行動する。

行為の動機は予想される不名誉、つまり義務の不履行に対する公的な非難の予測や、人に対して加えた具体的な危害に対する罪の念である。(公的な不名誉が非公式の否認から区別される。悪い結果に対する罪の念が否認から区別される)

 

(ポスト慣習的段階)

第5段階 社会契約、法律の尊重、及び個人の権利志向

道徳的な価値の基準が自律化し、原則的になっている。個人の権利が尊重されているか、社会的公平であるかどうかが問題となる。対等の人々やコミュニティからの尊敬(この場合その尊敬は情緒ではなく理性に基づくと考える)を確保しようとする関心。自分の自尊心についての関心、つまり自分を非合理的で一貫性がなく目的のない人間と判断せざるを得ないようなことを避けようとする関心。

 

第6段階 良心または普遍的、原理的原則への志向

人間の尊厳の尊重が正しさの基準。普遍的な倫理観を持つ。

自分自身の原理を踏みにじることに対する自己非難についての関心。(コミュニティの尊敬と自尊心とが区別される。何かを達成しようとする一般的な合理性に対する自尊心と、道徳原理を維持することに対する自尊心が区別される)

nagaalert.hatenablog.com

アイヒマンの発達段階はどこに該当するでしょうか?理財局の当問題関与者の発達段階はどこに該当するでしょうか?

第3段階までは小・中学生でもそこまで進めるレベルなので論外といえます。

私は、アイヒマンのモラルの発達段階は第4段階にあるように感じます。そして理財局の対応も第4段階なのではないでしょうか。

アイヒマンにとってはヒットラーが法なのです。決裁文書の改ざんという違法行為を行った理財局において「法の秩序と維持」が中心の価値基準となっている第4段階は一見矛盾しているように思えるかもしれませんが、理財局においては「法」というよりも「立法府としての国会」、それも「立法府である国会の(官邸側から見た)秩序と維持」が重視されたのではないでしょうか。

第5段階は該当するでしょうか?第5段階を理財局の対応にあてはめてみますと「個人の権利が尊重されているか、社会的公平であるかどうか」という視点が、理財局の対応では軽視されていたことが明白ですので、第5段階には該当しないことが分かります。

 

100de名著テキストには『考えるのをやめるとき凡庸な「悪」にとらわれる』と表現されており、ガイド役の金沢大学仲正教授の伝えたいメッセージがまさにこれであることが伺えます。

アイヒマンを引き合いに出して言いたかったのは、「法の秩序と維持」が中心の価値基準となっている第4段階にもかかわらず、こうした「悪」が行われたことが、驚きなのであり、「悪は陳腐である」という表現の意味でしょう。アイヒマンのように「本当に自分で考えるということをしない」とき、ルールに従っているからとして「考えることを放棄した」とき、大きな悪が行われるのです。

 

では理財局の彼らの頭の中ではこの「法の秩序と維持」を尊重するという道徳意識と、決裁文書の改ざんという違法行為がどのように彼らの頭の中で調整されたのでしょうか?

 

その答えのキーワードはスペシャル番組「100分deメディア論」で語られた「二重思考」にあると思います。このことはまた次回書きたいと思います。

病理的・支配的ヒエラルキーとしての森友問題

昨日の元財務相佐川理財局長の証人喚問にまで至った一大スキャンダルの森友問題であるが連日の国会の答弁やマスコミに報道を目にしながら、これはウィルバーのいう「病理的・支配的ヒエラルキー」によって引き起こされた問題であると思った。

 

ヒエラルキー(hierarchy)とは階層構造のことであるが、ウィルバーは自然的ヒエラルキーと支配者的ヒエラルキーを分けてこう述べている。(以下、 「万物の歴史」p47より引用)

 

自然的ヒエラルキーは、たんに全体性の増えていく順序です。例えば、素粒子から原子、細胞、生物体へ、または文字から言葉、文章、段落へ、あるレベルの全体は次のレベルの全体の部分になるのです。

 言い換えれば、通常のヒエラルキーはホロンから成るのです。そこでケストラーは「ヒエラルキー」は実は「ホラーキー」と呼ばれるべきだ、といったのです。物質から生命、生命から心への、事実上すべての成長過程は自然的ホラーキー、またはホーリズムおよび全体性の増える順で起こり―ある全体は新たな全体の部分になる―で、それが自然的ヒエラルキーまたはホラーキーなのです。

  

一方で

 

自然的ホラーキー内のどれかのホロンがその位置を不法行使して全体を支配しようとすると、病理的または支配的ヒエラルキーができるのです。ガン細胞が肉体を支配する、あるいはファシストの独裁者が社会体制を支配する、あるいは抑圧的自我が有機体を支配するなどなど。

 

今回の森友問題では、財務省理財局に何らかの(一応いまの段階ではこう表現しておく)圧力がかかり、その上層とその下部階層である理財局の間に病理的あるいは支配的ヒエラルキーができあがったのだと言えよう。

 

また、『進化の構造Ⅰ』のp39にはこうある。

(以下引用)

もし高位のレベルが低位のレベルに影響力を行使できるなら、高位のレベルは低位のレベルを過剰に支配したり、抑圧したり、疎外さえしたりできることになる。このことがただちに、私たちを個人および社会全体における多くの困難な病理現象の問題に導く。(引用ここまで)

 

まさに森友問題の公文書書き換え事件では、このような高位レベルからの影響力が行使され、理財局を、ひいては近畿財務局を、過剰に支配し、違法行為である決裁文書の改ざんにまで至らせたのである。

(「指示はなかった」と佐川氏は証言したが、内面への影響力が行使された可能性は否定していない)

 

そして、リーアン・アイズラーの言葉を引用して次のように言う。

 支配的な階層とは、力あるいは力の行使の公然または隠然たる脅しに基づいた階層のことである。こうした階層は、低位から高位の秩序に移行する機能組織の進化―例えば細胞から器官、そして生体へ―などに見られる階層構造とは非常に違っている。このタイプの(健全な)階層は自己実現的な階層と性格づけることができよう。その機能が組織の潜在的な力を最大限に発揮させることにあるからである。これに比して、力または力による脅迫に基礎をおいている人間の階層は、個人の創造性を抑圧するばかりでなく、結果として人間の低位の資質を強化し、(慈悲や同情、あるいは真理や正義などの探求といった)人間の高い欲求を組織的に抑圧する社会システムを生み出すのである。

 

今回の事件では、財務省(理財局)の本来あるべき姿が、「力あるいは力の行使の公然または隠然たる脅しに基づいた」支配的な階層によって、機能不全に陥り、その構成員らが本来もつべき「真理や正義の探求といった欲求」が組織的に抑圧されたのである、と言えるのではないだろうか。

 

それが国会の停滞だけでも一年以上におよぶのであるからこの組織の機能不全によって私たち国民の逸失した利益は大きい。

 

そしてこうした病理現象を治癒する方法としてウィルバーはいう。同p40

 あらゆるシステムにおいて、こうした病理現象を治癒する方法は同じである。病理的なホロンを探り当て、階層をもとの調和した状態に戻すことである。階層それ自体を根絶することは治癒にはならない。・・・病気になったシステムを治癒する道は、上昇または下降の因果関係の力を乱用してシステム全体の中で不当な位置を占めているホロンを探り当てることである。これがさまざまな領域に見る治癒の道である。・・・治癒は階層それ自体をなくすことではなく、不当なホロンを探り当て、統合することにある。

 

 森友問題では、この「不当なホロンを探り当てる」プロセスがまだまだ道半ばである。

 

そしてそのプロセスが完了したのち、もとの調和した状態に戻す、あるいは統合するプロセスが進められなくてはならない。

 

ホロンについては、

 リアリティは部分/全体であるホロンから構成されている - ウィルバー哲学に思う

を参照ください。この問題についてはまた書きたいと思います。

 

 

 

見せかけの不運と、無「本質」化

この1か月ほど前に、ネガティブな出来事があり、その対応のため少々苦慮してきた。

しかし、そんな中で、ジョン・レノンの息子であるショーンがNHKの番組『ファミリー・ヒストリー』に出演していた時に話した「ママはよく、これは見せかけの不運だっていうよね」という言葉を思い出した。

  オノ・ヨーコの祖父小野英二郎は東京帝国大学の試験を受けるも失敗し、米国に渡りミシガン大学大学院に進学する。そして経済学博士号をとり、のちに帰国後新島襄に招かれることとなる。

 このくだりを見ていたショーンは、試験に落ちたことは、ママ(オノ・ヨーコ)がよく言う「不運に見せかけた幸運」だよね、といった。

 もし試験に落ちなければ、渡米することもなかっただろうし、博士号を取得できていなかったかもしれず、新島襄に招かれることもなかっただろうから。受験の失敗は見せかけの不運であって、じつは不運に見せかけた幸運だったんだ、というようなことを言った(と記憶している)。

 

そしてそれに関連して、本ブログで取り上げてきた3つのキーワードとつながった。

それは、「本質の無化」、「脱フュージョン」、「カオスの縁」である。

 

「本質の無化」

(ここでいう「本質」とは、以下のブログにあるようにむしろネガティブな意味での本質のことである)

表層意識における概念的「本質」 - ウィルバー哲学に思う

本質の無化から、無「本質」的分節へ - ウィルバー哲学に思う

事物の本質を「物」と「事(出来事)」に分けて考えよう。

「物」についての本質は、ここに書いているように例えば「木」というコトバを目にし、耳にした時に心に浮かぶイメージや概念としてのシニフィエであり、矮小化されたリアリティである。一方、「出来事」についての本質は、主観的判断と複合した観念であり、それが積み重なると固定観念となり、体験する前から予期すると先入観となる。

不合格という出来事について、それは「好ましからざる事である」という固定観念があると、それは「不運」な出来事に分類される。

 しかし不合格は必ずしも好ましからざることであるとは言えない、という見方ができるなら、その不運は「見せかけの不運」であり、「不運に見せかけた幸運」なのかもしれない、と考えることができる。

 その不運は見せかけであると見抜くこと。それは「本質を無化」することに等しいといえよう。

 その出来事を不運だと判断しているのは、経験に基づいた、心のなせる業であって、その出来事をありのまま見ているのではない。過去の経験に基づいた固定観念というフィルターを通してみているのである。

  

「脱フュージョン

これはACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)を構成する6つのキーワードの一つである。

認知的フュージョンには、自分の感覚や感情に苦痛があるとき、その苦痛と自分自身を同一化してしまう「自分と自分の苦痛のフュージョン」、体験そのものと二次的な思考を同一視してしまう「思考と体験のフュージョン」、木の例で上述した「ことばとそれが指し示す物事のフュージョン」、そして「出来事と評価のフュージョン」などがある。

脱フュージョンで出来事と評価を切り分ける - ウィルバー哲学に思う

出来事の評価のフュージョンを脱するには(脱フュージョンするには)、「記述」と「評価」を切り分けることが重要だ。この例では「試験を受けたが、合格しなかった」と表現するのが「記述」であり、「不運にも不合格であった」と表現するのは、主観的な判断を交えた「評価」である。

「不合格であった」は出来事を記述したにすぎないが、「合格できず不運であった」というのは評価である。その記述された出来事は本来中立なのであるが、それを評価したときにその出来事自体がもつ性質のように思われてしまう。

フュージョンして記述と評価を切り分けるなら(そしてむしろ逆の評価をあえて張り付けるなら)、不合格は「見せかけの不運」なのかもしれず、「不運に見せかけた幸運」であるかもしれないのである。

 

カオスの縁(ふち)」

とはいうものの、この不合格となった小野英二郎の例でも、短期的には苦境に立たされたのであり、そのような時、人は真価を問われることになる。

それまでとは、異なる不確実な状況(環境)に身を置くことになるのだ。それは複雑系のことばでいうなら秩序とカオスの混ざり合った状況、いわゆる「カオスの縁」に立ったのである。カオスの縁では相転移が起こりやすいことが知られている。苦境に立ったとしたら、それはカオスの縁に立っているのであり、間もなく相転移が起こるのだと考えよう。新しいスキルや、能力を身につけて、一段高い地点に立つのである。

 

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分節Ⅰ→無分節(本質の無化)→分節Ⅱという井筒俊彦氏のチャートに準ずれば、

 

不運な不合格→本質の無化(依他起性)→不運と幸運を内包した不合格(見せかけの不運)

 

というように書き表せるかもしれない。

 

不運な出来事は、無「本質」化すれば、「見せかけの不運」となり、「カオスの縁」に立っていることを自覚すれば、「不運に見せかけた幸運」へと変容させることができるのである。

 

 

相転移」の補足

相転移とは、水が氷になったり、水蒸気になったりするように、気体、液体、固体など温度や圧力の変化によって別の相に急激に変化することをいう。

プラズマの発生、対流のパターン形成(ベナール細胞)、結晶の生成、粘菌の移動、都市の形成、技術革新など、相転移現象は、創発現象である。

 

カオスの縁」の補足

セル・オートマトンの研究:セル格子群に単純な規則を与えるだけで反復させると最初の2次元図形が予想できないパターンに変形していく。①均一への収束、②振動、③無秩序、④複雑な振舞い(=カオスの縁)という4つのパターンがある。

カオスの縁(ふち)とは「混沌と秩序の狭間にあるとき」であり、自然は盛んな自己形成能力を発揮し豊かな形態を作り続ける。新しい秩序の創発する場であり、進化や変革が進展する場である。→このような能力をもつ系を「複雑適応系」と呼ぶ。

 

 「依他起性」の補足

華厳哲学を完成した法蔵は、この縁起においてあること、つまり関係性においてあることを、依他起性(えたきしょう)と名づけた。他によって起きるということである。このあり方が妄想されたあり方に変ずると偏計所執性(へんげしょしゅうしょう)となり、完成されたあり方に転ずれば円成実性(えんじょうじっしょう)となる。

楽観性を育むマトリックス

先日、わが子の結婚式があり、新郎の父としてあいさつする機会がありました。

 接する機会が多いほうともいえず、良い父親とは決していえない立場ではありましたが、20数年を振り返ってみて、ともあれ楽観的な性格に育ってくれたことに感謝し、過去のエピソードを交え、こう表現しました。

 

彼の性格をいうなら

一見、悲観的に見える状況にあっても、楽観的といいますか、リスクを恐れない選択をとることができる。チャレンジできるという、ことではないかと思います。

 そしてなぜそのように育ったのか、と考えますと

 それは一つには幼い頃の母親の愛情、そしてもう一つは、何といっても皆さんとの共同体感覚といいますか、仲間意識なのではないかと思います。

 心の奥底で安心感のようなものがあり、「たぶん何とかなるだろう」というような感覚をもっているのだと思います。

 

と話しました。

 

 ポジティブ心理学では、この「楽観的であること」は、ハピネスを継続するための12の「意図的な行動」の一つであるとされています。

 カリフォルニア大心理学教授ソニア・リュボミアスキーの著書THE HOW of HAPPINESS(邦訳:『幸せがずっと続く12の行動習慣』)によると、幸福を決定するのは、遺伝(Genetic Tendencies)が50%を占めるものの、環境は10%にすぎず、残りの40%は「意図的な行動(Intentional Activities)」であると書かれています。

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「環境」要因が幸福を決定するうえで10%を占めるに過ぎないとは、意外に感じる人が多いのではないでしょうか。例えば、経済的に裕福であるかどうか、学歴がすばらしいとか、就職した会社が有名企業であるなど、およそ多くの人が「そうであれば幸せなのに・・・」と思っている状況の多くが、ほとんどハピネスを決定づけるものではない、というのが多くの調査研究に基づいた結論であると。

なぜそうなのかというと「快楽順応」(一時的に幸福感を感じても次第にそれに慣れてしまいやがて幸福感を感じられなくなること)があるからだと説明されています。

 

では何がハピネスを決定するのでしょうか。遺伝が50%とされていますが、これは自分ではコントロールできません。コントロールしうる50%のうちの8割を占めるもの、それは「意図的な行動」であるといいます。この「意図的な行動」については、Internal State of Mind(内面的なマインドの状態)と表示されている資料もあり、行動とマインドの状態が同じように扱われていること違和感が感じられましたが、その項目に目をに通すと納得できました。

 

ざっと次のような12項目が挙げられています。

 Practicing Gratitude and Positivity Thinking: Learn how to express gratitude(1.感謝する), cultivate optimism(2.楽観性を育む), and avoid overthinking and social comparison(3.考えすぎない、他人と比較しない)

Investing in Social Connections: Learn how to practice acts of kindness(4.親切にする) and nurture social relationships(5.人間関係を育てる)

Managing Stress, Hardship and Trauma: Learn how to forgive (6.許し)and develop strategies for coping(7.コーピング・ストラテジー

Living in the Present: Lean how to increase flow experiences(8.フロー体験) and savor life’s joys(9.人生の喜びを味わう)

Committing to Your Goals(10.目標へのコミット): Learn six benefits of committed goal pursuit and the types of goals you should pursue

Taking Care of Your Body and Spirit(11.内面のケア): Learn about practicing mediation, getting physical activity (12.瞑想と運動)and the power of acting like a happy person.

 

なかなか興味深い項目が並んでいます。 行動がマインドの状態を改善するもの、マインドの状態が行動を促すもの、マインドと行動の相互連関ですね。

自分がどのような意図的な行動(1~12)と親和性があるかをテストできるチェックリストや、ハピネス度を測定できる質問票などもついていました。

 

余談ですが、日立の矢野和男氏は著書「データの見えざる手~ウェアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則~」のなかで名札型ウェアラブルセンサによって職場のハピネス度(例えばフロー状態)と身体運動(例えば身体が継続的に速く動くこと)の相関関係を明らかにし職場の生産性を上げる戦略を構築しています。このことはまた別の機会に取り上げたいと思います。

 

話を元に戻すと、このハピネス度を上げるための12項目の2番目が楽観性なのです。

 

では楽観性は、どのように育まれるのでしょうか?

「楽観的であること」には、その背景が大きく影響するのではないか。

楽観性をカルティベイトする土壌があるはずです。・・・

 

それは、マトリックスによって育まれるのではないか、と直感しました。

 

2017年6月10日のブログで取り上げた吉福伸逸氏のいうマトリックスです。

nagaalert.hatenablog.com

マトリックスは成長とともに移行していきます。胎児のときは文字通り子宮がマトリックスです。幼児期では母親そのもの、幼少期には家庭(親戚や近隣含む)がマトリックスとなり、思春期以降は友人グループや部活サークルがその役割を担うというように移行していきます。この思春期以降のマトリックスは不安定なものとなりやすいため、アドラー心理学でいう「共同体感覚」がしっかりと形成されることが大切です。

 

こうした一連のプロセスがそれなりに順風であれば、一見悲観的に見える状況に陥っても、心の奥底でたぶん何とかなるだろう、といくらか楽観的に感じていられ、それがリスクを恐れない、チャレンジングな行動を支える基盤、グラウンドになるのではないでしょうか。

 そのように感じたからこそ、「共同体感覚」という言葉が、あいさつの時に自然に出てしまったのだと思います。

 

楽観性はハピネスを形成するひとつの重要な宝です。

あなたが、概ね楽観的な性格であるなら、貴重な宝物を手にしているのだと思って喜び、感謝しましょう。

 

思春期以降にしっかりと共同体感覚を感じられるマトリックスをもつこと、それは楽観性を育むうえで、きっと大切な土壌になるのだと思います。

 

純粋に空なる意識(Pure empty awareness)

前回の元日のブログを検証しようと思って『存在することのシンプルな感覚』からきっかけとなった文章を改めて確認し、他にもわが意に近い文章はどれであろうかとページをめくってみた。

 

まず、「状態」という表現のきっかけとなったのはp119-p120の以下の文章である。

(以下引用)

これが「空」の二番目の、もっとも深い意味です。それは識別できる分離した状態ではなく、むしろすべての状態のリアリティ、如性、ありのままの姿なのです。ここであなたは「元因」から「非二元」に移行した、ということになるでしょう。

Q―「空」には二つの意味があるということでしょうか?

K―そうです。そこが非常に混乱させられる点です。一方で、わたしたちが今見てきたように、それは意識のはっきりと識別できる状態です。すなわち、非顕現への没入、あるいは「止滅」(無分別三昧、ニルヴァーナ)なのですが、これが元因の状態であり、識別できる状態です。

二番目の意味では、「空」とは、単に多くの状態のなかの一つなのではなく、むしろすべての状態の如性、ありのままの姿、あるいは「状態」なのです。それはほかの状態から区別できるものではなく、すべての状態―それが聖なるものであれ、高いものであれ低いものであれ―のリアリティなのです。―『万物の歴史』(CW7:257-258)

 

 

この下から三行目にある「状態」という表現に対する記憶が前ブログのきっかけになっている。ただやや私が書いたこととは矛盾点がある。

 

この『万物の歴史』の文ではsubtle(微細)、causal(元因)が識別できる状態であるのに対し、非二元は「識別できる分離した状態ではない」と書かれている。しかし、私は非二元もまた識別できるかのような特定の状態として位置付けた。これは私の解釈が間違っているのだろうか?しかしながら上の三行目にある「ここであなたは元因から非二元に移行した(You have moved from the causal to the Nondual. )ということになるでしょう」という記述に注目したい。何かから何かへと移行できるような状態とは、識別できる状態であると言えないだろうか。

 

ここで、非二元の持つ二つの側面を思い出してみたい。それは『万物の歴史』に描かれた梯子のすべての段階のベースとして在る、いわば梯子が描かれている頁の紙としての非二元と『インテグラル・スピリチュアリティ』で描かれたウィルバー・コムスの格子にみる状態の究極としての非二元である。

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(『万物の歴史』p208に描かれた発達の梯子)

万物の歴史p212にこう書かれている。「この図表が描かれている紙こそが、最高の段階、実際には段階ですらなく、すべてが顕現される非二元の空の基底なのです」と。

 

一方、その後で出版された『インテグラル・スピリチュアリティ』では、非二元(Nondual)は、「段階」という縦軸と、「状態」という横軸の格子で意識の領域を示しており、非二元(Nondual)とは低い「段階」でも起こりえる一つの「状態」として示されている。

 

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(「ウィルバー・コムスの格子」 出所『インテグラル・スピリチュアリティ』p131)

興味深いのは「目撃者」が、この「W-C格子」の図には入っていないことだ。P112では、目撃者も4番目の状態として以下5つの意識の状態が解説されている。

1.粗大な覚醒の状態

2.微細な夢見の状態

3.元因、無形の状態

4.目撃者の状態

5.常に現前する非二元的意識

 

「目撃者の状態」はこう解説されている。

これは他のすべての状態を目撃する能力である。たとえば覚醒状態にあっても、明晰夢の状態にあっても、目撃者はそれを目撃する。

「能力」であるから状態とは言い切れないということであろうか。そしてこの「能力」は「段階」に比例するということだろう。

 

「常に現前する非二元的意識」はこう解説されている。

これは状態というよりは、他のすべての状態に対して常に現前する基底である。そしてそのようなものとして経験される。

この解説では上の梯子が描かれた紙に近いといえる。

 

次に、わが意に最も近い文章は『存在することのシンプルな感覚』P270-271のなかにあった。

(以下引用)

すべてが神以外の何ものでもなくなった時、そこには何もなく、神もなく、あるのはただ「これ」だけである。

主体も客体もない。ただ「これ」だけである。その状態に入るということはない。その状態から離れるということもない。絶対に、永遠に、常に、すでに、「これ」である。この「ある」というシンプルな感じ。

すべての、いかなる状態にもある、基本的でシンプルな直接性。〔『進化の構造』における〕四つの象限に先立ち、内面と外面の分化に先立ち、見るものと見られるものに先立ち、世界の生起に先立ち、常に今ここにある純粋な「現前」、「ある」というシンプルな感じ、そこにおいて、止むことなく世界が空け、開ける、空なる意識。「私―私」は、宇宙が入ってくる箱である。

「私―私」に落ち着いていると、世界は以前と同じように生起するが、それを目撃しているものはいない。「私―私」が「こちら側」にあって「向こう側」の世界を見ている、ということではない。ここもなく、向こうもなく、あるのはただ「これ」だけなのである。エゴを中心とする世界の終わり、地球、生物、社会、神、などを中心とする世界の終わりである。

 なぜなら、それらは、すべての中心性の終わりだからである。顕現しているすべての領域、すべての時間、すべての場所に置ける脱中心化、非中心化である。ゾクチェン仏教が言っているように、すべての現象はそもそも原初的に、「空」なのである。すべての現象はしたがって、生起するそのまま、ありのままに、おのずから解放されているのだ。

 この純粋に空なる意識のなかで、「私―私」は世界とともに止むことなく生起し、崩壊する。(In that pure empty awareness, I-I am the rise and fall of all worlds.)「私―私」はコスモスを呑み込み、いかなる混乱からも、時間からも、触れられることなく、原初の純粋性と激しい慈悲とともにコスモスを抱いている。進化の悪夢は、決して始まることはなかった。したがって決して終わることはないのである。

生起の瞬間に、すでに、おのずから解放されている。それはただ「これ」である。

「すべて」は、「私―私」である。それは「空」である。「空」は、自由自在に顕現する。自由に顕現するものは、おのずから解放されている(self-liberated)のである。

 禅では、勿論、すべてをもっとシンプルに言っている。そしてただ「これ」だけを直接に指し示すのだ。

 

古池や

かわず飛び込む

水の音

                  (『進化の構造』CW6:318)

 

 

この中で強調文字にした「純粋に空なる意識のなかで」と書かれているpure empty awareness。これが前回のタイトルの「状態に気づいている「状態」」という表現で私が示したかったものである。そしてそれは前回の図として描いた「円相」である。

 

私にはまだ非二元というものがよく分からない。これが非二元だという実感がない。頭で理解しているに過ぎない。

ということで前回ブログの「非二元のような究極の意識状態なのでもない。」というところに( )をつけさせていただいた。

 

やや言い訳がましい記事になってしまいました。(;^_^A

 

しかし「そうか!おのずから解放されている(self-liberated)とは、こういうことかもしれない」という新しい発見もあり、それはまた別の機会に書いてみたいと思います。

状態に気づいている「状態」

あけましておめでとうございます。初ブログを書きました!

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元日の朝の目覚めのあとにどのような言葉が頭に浮かぶのか?

これは自分自身としても、興味があることだ。

 

2018年の初夢ならぬ初想起、うつらうつらした頭に浮かんだ言葉。

それは「状態」であった。

 

「状態」とわざわざ「 」で括って表現しているのは、『存在することのシンプルな感覚』の松永さんの訳を参照してのことだ。

それはselfが、大文字で「自己(Self)」と表現されることに特別な意味があるのと同じように、大文字の「状態(State)」とあえて表現したい何かである。

 

通常、状態とは様々な状態の中の一つの状態のことを指していると思われるが、その意味では一般的に状態とは相対的なものであり、状態というときそれは相対的な状態なのだ、といえる。

 

しかしここで表現したい「状態」とは、「絶対的な状態」であり、「あらゆる状態を超えた状態」、「状態の状態」ともいうべき、「メタ状態」のことである。

 

「どんな状態をも包含した状態」であるといってもよい。

 

この「状態」は、subtleとも、causalとも違う。(非二元のような究極の意識状態なのでもない。)

 

落ち込んだ状態、興奮した状態、明晰な状態、衝動にかられた状態、怖れている状態、頭がしゃべり続けている状態、ぼんやりした状態、状態a、状態b・・・etc.

 

今、あなたが、どんな状態にあるのであれ、その状態に「気づいている状態」のことである。

 

「気づいている状態」であるから、ある時はその気づきの対象として状態aがあったり、ある時は状態bがあったりする。

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気づきの円相の中に、状態a、あるいは状態bが浮かんでいるのである。こうしたaやbといった小さな(と形容する)状態は、来たりてしばらく留まり、やがて消えていく。

 

小さな状態は漂い移り変わるのである。

 

これに対して「The 状態」ともいうべきこの大きな「状態」は、それらの小さな状態を映し出す「気づき(Awareness)そのもの」であるため移り変わることはない。

いわば、無無常である。

 

小さな状態の背景として、グラウンドとして、いつもこの大きな「状態」が存在していること。

 

このことを忘れてはならぬ。

 

いかなる状態のときもこのことを思い出そう。

その小さな状態を対象として、少し離れてみる。

そして、むしろ大きな「状態」の方へと身を委ねる。こころを重ねる。

 

すると、ほっとしたような有難い小さいが暖かい状態がやってきてくれる。

 

そうか!

 

ここでいうこの「状態」とは、さまざまな状態の、まさに母体なのだ。

 

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過去の参考ブログをあげるとすると、2009年のこの記事でしょうか。

 

nagaalert.hatenablog.com

お付き合いいただき、ありがとうございました。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。<m(__)m>

 

「目撃者の自己」と「複雑系の自己」

ウィルバーのいう「目撃者としての自己」と、ここ何回か記事で取り上げてきた「複雑系としての自己」を対比させて示せないかと考えて以下のような図を描いてみた。

 

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上図は「目撃者としての自己」(目撃者の自己)の広がりを私なりに示したものだ。
I(個人の内面)、We(集合の内面)、It(個人の外面)、Its(集合の外面)という4象限マトリクスはウィルバーのインテグラル理論の基本である。
目撃者(Witness)はどこに描くのがふさわしいのだろうか?
実は目撃者に位置はない。非位置なのだ。

であるから、4象限のどの象限にも属さない(つまりどこかの象限の中に描くのはふさわしくない)。あるいは逆にどの象限をも捉えているともいえる。
しかし便宜上、説明しやすいように左上象限の外側に眼を描いた。これが「目撃者としての自己」の眼である。

目撃者である眼からは3重の楕円(ループ)が広がっている。順番に見ていこう。

まず、一番小さな楕円は(個人の内面)象限に伸びている。
あなたは、空に雲が浮かんでいるのに気づくように、意識に生起する感情に気づくことができる。感情は対象(object)であり、あなたではない。主体であるあなたは客体(object)である感情に気づく。感情を見ているあなたは、目撃者である。
あなたは、空に浮かんでいる雲に気づくのと同じように、意識の中で湧き起こる思考に気づくことができる。気づくことができる思考とは対象であり、あなたではない。主体であるあなたは客体である思考に気づく。思考を見ているあなたは、目撃者である。

このように内面に生起する感情や思考と脱同一化し、それらを対象として観ることが目撃者の第一歩である。

次にIt、We、Itsへと伸びた2つ目の楕円である。
目撃者は、何の努力もなく身体に気づくことができる。立っているのか座っているのか、止まっているのか走っているのか、笑顔なのか汗をかいているのか、脈拍が速いか、体温が高いかなどなど。動作や身体の状態などの個体の外面(It)に気づいている。

同時に、「私たち」(We)にも気づくことができる。スポーツで所属しているチームが勝利した時、その一員であることを誇りに思う気持ち。所属感、共同体感覚。友情。あるいは家族間の愛情。そうした他者との感覚や共通の価値観に気づくことができる。それらは他者との間で間主観的に内面に生起する。それもまた対象である。

五感を通して身の回りの環境、自然(Its)に気づくことができる。鳥の囀りが聞こえる。風が冷たい。金木犀の香りがする。落ち葉を踏みしめる感覚。銀杏並木が美しい。蓄えられている記憶や知識とインプットされた情報がやりとりされ、それが何であるかが認識される(歪められることも多い)。それら世界を構成している諸物もまた意識のなかに生起しているのだと気づくことができる。

最後の3つ目の楕円では、I、It、We、Itsの各象限が4点生起し、それらすべてを包含する視点としての目撃者が自覚される。その意味ではI(左上)象限の外の縁に眼があるというよりもむしろ、4象限マトリクスの背景として目撃者は在るといった方がよいかもしれない。この意識は広大(Spaciousness)で、どんなものとも同一化しておらず、それゆえ空(Emptiness)であり、開かれている(Openness)。

意識のなかに4象限が生起している。それが左上I象限の外側の縁に目撃者の眼を描いた理由である
「目撃者のとしての自己」はこれら4象限の中のどのようなコンテンツとも同一化しない。それらのコンテンツはあくまでも意識に現れる対象であって、「自己」ではない。
(非二元としての自己ではこれらすべてのコンテンツが自己となり、自己=世界となるがここではそこまで踏み込まない。まだ私には踏み込めない。)

 

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「目撃者としての自己」に対し、こちらは私のイメージする「複雑系としての自己」(複雑系の自己)の図である。

複雑系の自己には位置がある。世界内観測者、世界内行為者としての位置である。
順を追って見ていこう。

まず、「位置がある」ということは、物理的な身体に依存している、身体に依拠しているといってよいだろう。そして行為→認識および認識→行為が相互作用として生じる。それが最初の小さなループ(Its-I)である。

次に、行為を通じて環境との相互作用が起こる。環境を改変し環境を創造する。逆に環境から身体が影響を受ける。認識が改まる。世界に対する一定の認識にもとづく行為によって他者との関係が生じる。他者との関係から新たな世界が生まれる。そうした相互依存関係が二つ目のループで示されている(It-Its-I-We)。

全ては相互作用しており、単独で固定した実在として存在するものは何もない。4象限の中味としてあるものは、すべて相互連関のネットワークとして存在している。個物と個物は相互に影響し合い、個は全体に反映され、全体は個に影響を与える。一つの珠玉に他のすべての珠玉が映し出されるインドラ網。それが「複雑系としての自己」の3つ目のループである。

「目撃者の自己」では3重の輪を楕円と表現したが、「複雑系の自己」では3重のループと呼びたくてそう表現した。なぜだろうか。

それは「目撃者の自己」がどちらかというと静的な存在で楕円によってその範囲をカバーしているというニュアンスが強いのに対し、「複雑系の自己」は動的なル-プとして回りながら全体が生成変化しているイメージが強いからだ。

目撃者の自己から非二元の自己へと突破することで「自己イコール世界」となるが、複雑系の自己では、自己は世界内行為者であり続け(であるから右上象限として位置づけされ)、私の表現では「世界と自己はセットである」として、(たしか小林道憲氏の表現では「宇宙は参加型の宇宙なのだ」という形で)、「自己イコール世界」となる。

個をある程度意識したままで、その相互依存的な世界の性質によって「個物としての固定した実体などない」として「本質」を「無化」するアプローチが「複雑系の自己」である。これは「個と個、個と全体の境界の消失」である。

それに対し、「意識の野」に現れるもの、生起するもの(それが普段私たちが何の疑いもなく自分と思っている「思考」も含めて)すべてを対象(客体)として目撃したのち、目撃している自己すらも消え去るというアプローチが「目撃者の自己」である。これは「自己と対象(世界)の境界の消失」である。

 

言葉足らず説明不足をお許しください。お付き合いいただき、ありがとうございました<m(__)m>。

関連する過去ブログ

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