Self(大文字の自己)
蹴聖(しゅうせい)といわれた藤原成通の日記によると… 1000日休まず蹴鞠する千日行の夜に毬の精が出てきた。人が蹴鞠をしているときに鞠に憑き、しなくなると柳の林に戻ると言った、 とある。 鞠や球に不思議な力があるのだろうか。 私の好きな卓球でも、一体…
ウィルバーのいう「目撃者としての自己」と、ここ何回か記事で取り上げてきた「複雑系としての自己」を対比させて示せないかと考えて以下のような図を描いてみた。 上図は「目撃者としての自己」(目撃者の自己)の広がりを私なりに示したものだ。I(個人の…
『〈仏教3.0〉を哲学する』のp218で藤田一照さんがいいます。 (以下引用) それで二つの自己というのを、すでに内山老師は言っていて、僕らは普通には1/all(オール分の1)という自分を自分だと思い込んでいるっていうんですよ。これが今までの議論だと平…
ケンウィルバーの『存在することのシンプルな感覚』(The Simple Feeling of Being)は、訳者松永さんも言われたように最終章がたいへん素晴らしいのですが、私は「目撃者」とタイトルがふられた第1章にも大いにインスパイアーされました。その中に『〈仏教3…
新年あけましておめでとうございます。 元日に新しい会社の商号「経営マトリクス研究所」のマークの初夢を見た。これは正夢である。 2次元平面に描く正六角形(ヘキサゴン:hexagon)は、3次元の立方体(キューブ;cube)にも見えるという考えてみれば不思議…
〈画像はintegrallife.comの Integral Mindfuinessより〉 藤田一照氏、永井均氏、山下良道氏鼎談『〈仏教3.0〉を哲学する』を見ております。 第1章に、「無我と本質と実存」という節があり、たいへん興味深く読ませていただきました。主に永井氏によるコメン…
眼から外の世界に見えているもの テーブル、椅子、棚、床、窓、カーテン、外の景色、自分の手足 などなどのこれら 両腕を後ろに回して、手の甲を重ねてみる 蝶が翅を閉じているときのように そこから、ゆっくりと、巨大な岩の扉を開くように 周りに見えてい…
今年の9月25日に出版された3人の鼎談からなる『〈仏教3.0〉を哲学する』がとても面白いです!! このことを受けて、第3回の生きかた「知縁」カフェの3つ目のテーマとして、以下の内容を書き添えました。 「観察者としての自己」を取り上げ、藤田一照氏、永井…
脳科学の視点を取り入れ、ウィルバー哲学、マインドフルネス、ACT、アドラー心理学などを横断的に学ぶ勉強会です。ソーシャルビジネスへの展開も視野に入れ、交流します。 【生きかた「知縁」カフェ第4回 内容】 ①今回のテーマ:最近のブログから「人類進化…
哲学者である永井均さんの著書『私・今・そして神』の中に、注目すべき表現があったのでその部分に線を引いた。それは「開闢(かいびゃく)の奇跡」という節のなかに書かれている。(以下、P40~p42より引用) ある名付けえぬもの ・・・ まあ、基本的には、…
前回の続きです。 アイデンティティの最も高いStageであるAbsorptive−Witnessing段階の特徴の二つ目は、「目撃認知へのアクセスの増加」(Increased Access to Witnessing Cognition)です。P153のこの節を読み、これと関連したP77の「認知の発達ライン:ポ…
今回はインテグラル理論の発達ラインの中の自己同一性(セルフ・アイデンティティ)のラインを取り上げたいと思います。 LeovingerとCook-Greuterがその研究者として名前が上がっていたので、探していたらクイーンズ大学の心理学のサイトの中にコンパクトに…
空性(Emptiness)を理解するうえで、目撃者(Witness)や現前(Presence)と並んで、よく出てくるキーワードはOpenness(開け)です。以下にILPの中から、私が「開け」と訳したところを何箇所か抜粋してみました。 P221 あなたとは見者であり、あなたの中の…
キューブラー・ロスは終末期にある患者へのインタビューにより、死を受容するプロセスを「否認」「怒り」「取り引き」「抑うつ」「受容」の5段階にまとめています。 すべての人が受容の段階に到達して亡くなるということではない(「死ぬ瞬間」中央公論新社…
万物の歴史ではp294-p295を境に、進化の構造Ⅰではp414-p415を境にヴィジョン・ロジックの段階でおこる実存的病理からの突破(ブレイクスルー)の様子が描かれています。 進化の構造p413ではトルストイの言葉を引用してその苦悶を表現しています。 50歳になっ…
1月7日のブログに書いたように、配偶者や子どもなど自分と同一化していた親しい人を悲劇的に喪失した場合に、当初感じた苦悶や激しい恐怖に代わって、ふいに「いまに在る」という聖なる意識、深い安らぎと静謐と、恐怖からの完璧な自由が訪れることがある、…
今日は4月11日に続いて「わたし観の転換Ⅱ」を書きたいと思います。 私たちは「私とはこのような人だ」と考えるとき、そのベースとなる自分の過去の出来事の記憶を持っています。このような記憶を自伝的記憶といいます。自伝的記憶は次のように説明されていま…
「僕って何」は芥川賞を取った三田誠広の本の題名ですが、(たしか高校生のときに課題図書で読んだ記憶があります。)この僕って何なのか、私とは?ということに関して、それまでの認識がまったく間違っていたんだ、(本のことではなく)と気づき始めたのは…
死ぬ前に死ぬ人は死ぬときに死なない とは西谷啓治がハイデガーのの論文解釈のなかでいったことばのようですが、(「老子の思想」張錘元/著P232)道徳経第五十章「大死と道」の解説のなかで取り上げられています。 ウィルバーの「グレース&グリット」にも自…
トーレのニューアースの「第2章 エゴという間違った自己のメカニズム」の最後『すべての理解にまさる安らぎ』に以下のように書かれています。 (以下引用) 人生のどこかで悲劇的な喪失に出合い、その結果として新しい次元の意識を経験した人は多い。子ども…