Witness(目撃者)
2000年以降の人生で、私がもっとも救われたのは、ウィルバーの「目撃者」(Witness)である。この週末にも、エゴの情動を揺さぶる穏やかならぬ小さな出来事があった。そこで枕元の『存在することのシンプルな感覚』第1章「目撃者」を再読した(何百回目かの再…
2019年の10月15日に「卓球の実践によるインテグラルへの波及」という稿を書き、卓球という活動がもたらす(と期待される)効果や影響を四象限(Quadrant)で示した。 また同年10月8日に「フローの条件として接戦で〈今〉にあること」を書き、当時の少ない経験か…
(2021年1月1日、モーニングショーより撮影) 私たちは勘違いしていた。 「今」とは、過去と未来に挟まれた刹那であると。 であるから 今ここを軽んじ、 こころは先へ先へ、あるいは前へ 彷徨う。 しかし、そうではなかった。 〈今〉とは、過去を含み未来を…
3月6日のブログで『見せかけの不運』について書いた。 ある出来事を、その出来事単独で、その時の自分にとって好ましい事、好ましからざる事で分けて、あれは良い出来事、これは悪い出来事、前回は幸運な出来事、今回は不運な出来事というように判断する。人…
前回の元日のブログを検証しようと思って『存在することのシンプルな感覚』からきっかけとなった文章を改めて確認し、他にもわが意に近い文章はどれであろうかとページをめくってみた。 まず、「状態」という表現のきっかけとなったのはp119-p120の以下の文…
あけましておめでとうございます。初ブログを書きました! **************************** 元日の朝の目覚めのあとにどのような言葉が頭に浮かぶのか? これは自分自身としても、興味があることだ。 2018年の初夢ならぬ初想起、…
ウィルバーのいう「目撃者としての自己」と、ここ何回か記事で取り上げてきた「複雑系としての自己」を対比させて示せないかと考えて以下のような図を描いてみた。 上図は「目撃者としての自己」(目撃者の自己)の広がりを私なりに示したものだ。I(個人の…
平成29年6月10日のブログで吉福伸逸氏のいうマトリックスのことを書いた。それはエネルギー源の提供、徹底的な安心感、排泄物の処理という3大機能をもち、子どもの成長とともに子宮から、母親、そして家庭、自然界や仲間、会社へと移行していく。 nagaalert.…
『〈仏教3.0〉を哲学する』のp218で藤田一照さんがいいます。 (以下引用) それで二つの自己というのを、すでに内山老師は言っていて、僕らは普通には1/all(オール分の1)という自分を自分だと思い込んでいるっていうんですよ。これが今までの議論だと平…
前回の続きです。 『〈仏教3.0〉を哲学する』p110に出てくる内山興正氏の描いた第5図について永井均氏はこう話されていました。 「わが生命」は中に入っていないで、外に出ているんです。その一員として何かヤリトリはしていないで、その様子を外から見てい…
ケンウィルバーの『存在することのシンプルな感覚』(The Simple Feeling of Being)は、訳者松永さんも言われたように最終章がたいへん素晴らしいのですが、私は「目撃者」とタイトルがふられた第1章にも大いにインスパイアーされました。その中に『〈仏教3…
『仏教3.0を哲学する』のp110、P111に描かれている第五図、第六図がとても興味深いです。この絵にあるような「自己ぎりの自己」すなわち〈自己=世界〉を実感を持って確立するためにはどうすれば、あるいは「どうあれば」いいのだろうかということを改めて考…
新年あけましておめでとうございます。 元日に新しい会社の商号「経営マトリクス研究所」のマークの初夢を見た。これは正夢である。 2次元平面に描く正六角形(ヘキサゴン:hexagon)は、3次元の立方体(キューブ;cube)にも見えるという考えてみれば不思議…
昨日は、娘の結婚式だった。素晴らしかった。感無量とはこのことを言うのだろう。 そして昨夜、2年前に何度も見たあの名作「素晴らしき哉、人生」が再放送されていたのでそのエンディング(自殺しようとしたジョージが天使に「彼が存在しなかった世界」を見…
〈画像はintegrallife.comの Integral Mindfuinessより〉 藤田一照氏、永井均氏、山下良道氏鼎談『〈仏教3.0〉を哲学する』を見ております。 第1章に、「無我と本質と実存」という節があり、たいへん興味深く読ませていただきました。主に永井氏によるコメン…
今年の9月25日に出版された3人の鼎談からなる『〈仏教3.0〉を哲学する』がとても面白いです!! このことを受けて、第3回の生きかた「知縁」カフェの3つ目のテーマとして、以下の内容を書き添えました。 「観察者としての自己」を取り上げ、藤田一照氏、永井…
脳科学の視点を取り入れ、ウィルバー哲学、マインドフルネス、ACT、アドラー心理学などを横断的に学ぶ勉強会です。ソーシャルビジネスへの展開も視野に入れ、交流します。 【生きかた「知縁」カフェ第4回 内容】 ①今回のテーマ:最近のブログから「人類進化…
前回のブログで「離れ内、近く外(笑)」と書きました。長々と書き記したコンセプトを短い言葉で覚えやすいように、どう表現しようかと何回か修正したあげく、この表現に行きついたのでありました。 「はなれうち、ちかくそと」と読んでもらっていいのですが…
福は内、鬼は外 節分の豆まきの言葉であるが、家の玄関を境界として、幸福をもたらしそうなものはどうぞお入りください、不幸をもたらしそうなものはどうか外へ、という掛け声である。しかしながらそうすると、外の世界は鬼ばかりいる怖いところになってしま…
このブログでいつも伝えたいと考えていることを「直球、ストライク!」という表現でタイトルになっている鎌倉一法庵住職の山下良道さんの著書「青空としてのわたし」を読みました。 良道さんはもともと曹洞宗僧侶でアメリガでの布教経験を経て、ミャンマーに…
ウィルバーは著作の中で、映画のスクリーンを見ている観客の立場という喩えで、観察者としての自己(Witness)を解説していますが、前回紹介したスパイラのPresenceの中でも、自己の本質をスクリーンに喩えて解説している部分があります。 読んでみて、これ…
ガンガジはその師であるプーンジャ(ラマナ・マハリシの弟子)から「止める」という教えを受けたといいます。 ガンガジの次の文章が大変印象的だったので紹介させていただきます。 (以下、the Diamond in your Pocketから引用) 私はよく、「どうすればこの…
まず、ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」の訳者あとがきで、松永太郎さんが書かれた文章を抜粋したいと思います。 (以下引用)この非二元への開眼は、恐ろしくシンプルで、誰にでも開かれている。徹底的に「平等」である。修行したり、勉強した…
今回みていくのはACT(アクセプタンスコミットメントセラピー)の「観察者としての自己」です。ウィルバーのいうWitnessであり、目撃者、あるいは観照者と訳されています。このブログでは基本的に目撃者と書いてきました。これは、清水博先生のいう場所中心…
生きていく意味が分かりません、生きていく意味があるのでしょうか?と、もし尋ねられれば自分はどう答えるだろうか。 1ヶ月ほど前の研修をきっかけに、ぼんやりとそんなことを考えていたのですが、山田邦男氏の「フランクルとの〈対話〉苦境を生きる哲学」…
ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)を構成する6つの要素(注)のなかでは、「観察者としての自己」が最も重要なのではないかと思う。 「観察者としての自己」の視点が定着し成長するとどうなるのであろうか? ケン・ウィルバーの「存在する…
このブログを読んでいただいている方からフロー状態とマインドフルネスな状態の違いについてコメント欄に質問がありました。ありがとうございます。興味深いテーマと思われましたので、以下に私の考えを書かせていただきます。 フローとマインドフルネスの違…
ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)でいう『観察者としての自己』にとどまる(ウィルバーの表現では”Rest as the Witness”)ことが、ヘルプしようとする人の話を聴く姿勢としてもたいへん望ましいものである、ということがわかりました。 …
ティクナットハンの「微笑みを生きる」(邦訳、池田久代)にはマインドフルネスのことが分かりやすく書かれています。 今回はその「感情の川」(p64)という節から、不快な感情とどう向き合えば良いかについて書かれている部分を紹介したいと思います。 (以下引…
自分の中に、「自分はこんなものじゃない」と強く思っている自分がいる。 これはよい意味で、なのではなく悪い意味で、だ。 人に助言らしきことをいう機会があるが、そのときの自分の言動の中に、かなりの割合でそうした「自分はこんなものじゃない」という…