清水博著「生命知としての場の論理」〜柳生新陰流に見る共創の知〜という本の中に場所中心的自己という言葉が出てきます。(以下引用)
日本の古武道(その典型的な例が上泉伊勢守を流祖とする柳生新陰流です)が日本の貴重な文化遺産であると私が思っている理由は、相手がどのような技できても絶対勝つことができる「真剣勝負の必勝の理」を発見したという点にあります。・・・
一口に言えば、上泉伊勢守は「場の原理」を発見し、それを活用することによって必勝の技を創造したと私は考えています。それまでの技は・・・自己中心的観点から敵を見て「このように太刀を使えば敵をうまく斬ることができる」という特殊技なのです。・・・
必勝の技というものは、特殊な個別技ではなく、普遍的な技でなければなりません。普遍的なものは「無」を抱くものです。普遍的な原理を得ようとすれば、自己中心的観点から見ることを止めて、彼我の境界を超越した場所中心的観点に立つことが必要です。・・・
自己は二重構造をもっていることが分かります。一つは自己中心的(自他分離的)にものを見たり、決定をしたりしている自己(自己中心的自己)、もう一つはその自己を場所の中心に置いて場所と自他分離しない状態で超越的に見ている自己(場所中心的自己)です。・・・
宮本武蔵の『兵法三十五箇条』には、真剣勝負に臨むときの心構えが書かれていますが、相手を対象化して正確に捉える「見の目」と、場所の中心において超越的に捉える「観の目」の二種類の目をもって敵を見ることの必要性を説いています。場所の中に自分と敵を置いて、主客を超越した観点から場所全体の状況を捉えようすると、敵の意図はおのずと明らかになるものです。(引用ここまで)
この場所中心的自己とは、まさにケンウィルバーのいう目撃者、観照者なのではないでしょうか。