ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

「どの子も特別」という考え方

京都府のある小学校で6年生のクラスの担任の先生にお会いした時のことです。小学2年生の時に小児脳腫瘍を発症した女の子が今春、卒業するというので、よく配慮してくれたというその若い担任の先生に、インタビューさせていただきました。
(私)「○○ちゃんは体温調節ができない(脳腫瘍の影響で)ということなので、夏の暑い日の体育の時間などは、ずいぶん気を使われたんじゃないですか?」
(先生)「いや、僕が心配する前にクラスメイトが、○○ちゃん、大丈夫か〜、ちゃんと水飲みや〜と声をかけてくれていたようです。」
(私)「○○ちゃんだけ特別扱いするのはおかしい、という声は上がりませんでしたか?」
(先生)「そんな声はなかったですね。私は、みんな特別だと思っています。それぞれの子が私にとって特別であり、○○ちゃんだけが特別なのではないのです。」
(私)「だから、どの生徒に対しても、その子に応じた支援や配慮をされているということなのですね。」
この「どの子(に対して)も特別」(にその子に必要な支援をする)という考え方の中にある『平等』(EQUALITY)は、(どの子に対しても)「特別扱いしない」という考えにある『平等』(equality)よりも、「深い」のではないかと思います。元来、「平等」という言葉は「公正」という意味を含むようです。私の専門とする経営分野では「機会は平等に、処遇は公正に」ということが当たり前となっています。すなわち門戸は社員全員に開かれており(平等)、「ガンバリが報われる」仕組みによって賃金、賞与、ポストが処遇される(公正)ということです。この頑張った者と怠けた者を同じように処遇すると悪平等となります。仏教では人間の善悪を公平に裁くところから閻魔大王の別名を平等王(びょうどうおう)とも呼ぶようですが、ここにも公正さが含まれています。公正の意味を含む『平等』を大文字でEQUALITY、差別なく等しく扱うというだけの『平等』を小文字でequalityと表現するなら、EQUALITYはequalityを含みながらも、その意味を超えて、equalityにはないもの(公正)をもっているといえます。このときEQUALITYはequalityよりも「深い」ということができます。学校の先生方にはEQUALITYで子どもたちに接してほしいものです。