ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

あの世めぐりと本来の自己

社会人になった頃に、「人事屋が書いた経理の本」で有名な西順一郎さんの本のなかで「あの世めぐり」という法話の引用がありました。地獄と天国がどうなっているのか見てみたいという人を連れてあの世を案内したのだそうです。

まず地獄を観に行きました。血の池や針の山があるのかと思っていたら、白い大きなテーブルがあり、おいしそうな御馳走が並んでいます。地獄の人々はみんなテーブルについてご馳走を食べようとしているのですが、どういう訳かみんなが持っているお箸は身の丈ほどもある長い箸なのです。その長い箸を使ってわれ先に食べようとするのですが、箸が長すぎて皆どうもうまく食べられない、というのが地獄の風景でした。

次に天国を観に行きました。こちらにも白い大きなテーブルがあって御馳走が並んでおり、皆さんが身の丈ほどの長い箸を持っているところは同じです。

でもこちらでは長い箸を使って、自分で食べようとせず、みんな他の人に食べさせてあげているのでした。

人の考え方次第でそこは地獄にも天国にもなる、というお話で、西さんはそれを自己中心主義と相手中心主義の例として取り上げていたと記憶しています。

 ではどうしたら天国の人のように行動できるだろう?ということが頭のスミに引っかかっていました。性悪説で考えると自分が他の人に食べさせてあげても、他の人が必ずしも自分に食べさせてくれるとは限りません。自分は他の人に食べさせてあげたのに誰も自分に食べさせてくれなければ「バカをみる」ことになるわけです。

そこで物々交換が始まります。(この場合はサービス対サービスの交換ですが)すなわち、私はあなたに食べさせてあげる(サービスを提供する)から、あなたも私に食べさせて下さい(同じサービスを提供して下さい)と契約するということになります。そしてこれが発展すると、いまはサービスを提供できるが、食べるのはおなかが空いた時にしたい、だから提供したサービスの証明書を発行してください。そしてこの証明書を呈示さえすれば誰からでもサービスを受けられるようにしましょう、ということで誕生したのがお「金」です。

じゃあ何でもお金を媒介した交換にするのがいいのか?と考えるとそれもちょっとした地獄のような気がします。その集団が互いに信頼できる集団かどうかにかかっているとも考えられます。「きっと私が困った時に返してもらえる」と信じることができる集団、すなわち助け合いの精神が及ぶ範囲の集団を「コミュニティという」のを地域通貨の関連の本で読んだことがあります。ですからこの白いテーブルを囲んでいるのが自分のコミュニティの人たちであると思えれば、互助的、互恵的に天国スタイルが成り立つとは考えられます。しかし、メンバーがコミュニティー外のメンバーであれば、また「バカをみるのでは・・・」と不安になるか、物々交換するか、お金を利用することのいずれかになるでしょう。しかし、コミュニティであっても、「きっといつかどこかで返してもらえる」あるいは「今まで助けてもらったから」というREWARDが根底にあります。ですから公正なREWARDをしないものは村八分になったりするのです。

ケンウィルバーの意識の発達段階から考えるとどうなるでしょうか?トランスパーソナルな段階では収縮した自己との同一化から解放され、自分と他人の境界がなくなる(無境界)といいます。(以下シュレディンガーの言葉をケンウィルバーが引用した部分より抜粋)

 

意識とは複数を知らない単一のものである。・・・ある男が、まさにこの場所に座った。氷河に消えていく夕日の光を畏敬と憧憬の念をもって見守った。・・・彼は他の誰でもないのではないのか。彼は、あなた自身ではないのか(抜粋ここまで)。

 

まさにこのような意識の中ではREWARDの期待のあるなしに関わらず、天国スタイルの行動が可能になります。自分と他人の区別は消え去ります。道徳観念から自分よりも人のために、というのでなく、まさに本来の自己による自然な行動として他の人に食べさせるということが起こるのだろうと思います。