ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

「アフォーダンス」と「主体としての空」は似ているような…。

「主体としての空」を人に説明しようと思って、少し考えた時に頭をよぎったのがアフォーダンスという言葉でした。アフォーダンスとは松岡正則さんの千夜千冊にある佐々木正人著『アフォーダンス』1994岩波書店の解説によると
(以下http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1079.htmlより引用)
その何かを与えているということを「アフォード」(afford)という。「〜ができる」「〜を与える」という意味だ。そのようなアフォードの可能性がいろいろあることを、この紙には「アフォーダンス」(affordance)があるということにする。マイクにはそれを握らせるというアフォーダンスがある。椅子にもアフォーダンスがある。座ることを要請している。橋には渡ることのアフォーダンスや重量に耐えるというアフォーダンスがある。万年筆は持たれて紙と出会うことを、電気カミソリは顎にあてられることを待っている。道具だけがアフォーダンスをもっているのではない。大地は歩くことの、断崖は落ちることのアフォーダンスを、それぞれもっている。ありとあらゆるものにアフォーダンスがあるといっていいだろう。(引用ここまで)

このアフォーダンスという概念の面白いところは、普通、私たちは道具や環境、モノなどは客体として捉えることに慣れているのですが、それを主客転倒して道具や環境が主体で私たちに対してアフォードする、あるいは私たちに対するアフォーダンスを持っていると発想するところだと思います。

これって主体としての空に通ずるものがあるのではないでしょうか。主体としての空は私たちの思考、私たちの欲求、私たちの感情を客体化するとことから始まります。そして観ることのできるもの(対象)は観るもの(主体)ではない、という究極(?)の論理により、観るもの(主体)こそ空であるとします。すなわち空は主体であって、客体が(普段私たちが使っている)「私」となります。客体が私であるというこの逆転の発想がアフォーダンスに似ているということで、ただそれだけなのではあるのですが・・・何かこの主体としての空を理解する手がかりになる気がし、書き留めました。いかがでしょうか。