ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

パウロのいう神の平安?

トーレのニューアースの「第2章 エゴという間違った自己のメカニズム」の最後『すべての理解にまさる安らぎ』に以下のように書かれています。

(以下引用)
人生のどこかで悲劇的な喪失に出合い、その結果として新しい次元の意識を経験した人は多い。子どもや配偶者を、社会的地位を、名声を、肉体的能力を失った人もいる。場合によっては災害や戦争によってあらゆる物を同時に失い「何も」残されていないことに気づいた人もいる。それは「限界的状況」と呼んでもいいだろう。
何に自分を同一化していたにせよ、それが奪い去られた。そこでなぜだか分からないが、当初感じた苦悶や激しい恐怖に代わって、ふいに「いまに在る」という聖なる意識、深い安らぎと静謐と、恐怖からの完璧な自由が訪れる。(聖パウロの「人のすべての考えにまさる神の平安」)
人は自分に問いかける。こんなことになったのに、どうしてこのような安らぎを感じられるのだろう、と。(引用ここまで)

 
ここを読んで、あーそうだったんだ、と思いました。
私はよく子どもの葬儀のときのお母さんの様子について話を聞くことがあるのですが、共通しているのは、多くの母親が悲嘆に暮れた様子ではないこと、むしろややハイであったり、非常に普通(普段通り)であること、などです。

そういえば、配偶者を突然なくされた先輩も葬儀でむしろ強いエネルギーを放ち、元気付けようとしたこちらがむしろ気後れしたことを思い出しました。どう見ても気丈に耐えているという感じではありませんでした。


自分が同一化(identify)していたものの形が崩壊した、奪い去られたことでその背景にあったパウロのいう「神の平安」(=空、無形、Being?の次元)が顔を出した。あるいはそれを垣間見たということなのでしょうか。


私たちは普段、自分が考えている自分(職業や地位、自分の物語)と同一化しています。その自分が考えている自分、同一化した自分を自己意識としてもっています。しかしそれはいわば氷山の海面上の部分なのです。それをトーレはエゴと呼び、それに予期せぬ亀裂が入ることで、ある意味、強制的な解脱が一時的に行われたということです。

これは自分自身が死の淵に立つことによっても起こるようです。
このトーレ自身がそうですが、ウィルバーの妻のトレヤも死を受け入れ次第に輝きを増していったとあります。たしか自然農法の福岡正信氏もそのように自分のことを無三部作で書かれていたと記憶しています。

そしてこのような瞬間に恩寵、アメージング・グレイスがやってくるのかもしれません。