「世界をありのままにみる」ということと「エゴをみる目撃者」をどう統合すればいいか、整理しきれていなかったのですが、ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」(元は意識のスペクトル)にこうあります。(P212 原書P144 )
「見者」すなわち「あなたの内部にあって、それによって知るもの」
は実際にはそれが見ているものと分離しているわけではない。
The Seer, the THAT IN YOU WHICH KNOWS, in actuality is not
separate from what it sees.
「それは、それが見ているもの」
It is what it sees.
「知るものとは、それになることによって、それを知る」
The knower sees a thing by being that thing.
聖トマス・アクィナスが言ったように「知は、知られる対象が、
知るものの内部にあるかぎり、もたらされる」のである。
Knowlege comes about in so far as the object known is within
the knower.
特にこのby being that thingというところがすごい。
見者はエゴに対しては同一化しないように見ることがポイントとなりますが、世界をありのままにみるときは、そのレフェランに対して同一化し、そのものになることでそれを知る、ということになります。
そう、実は客体などなかった・・・のです。