ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

ロマン派のまちがい

私はウィルバーの著書と出会うまえ(万物の歴史を手に取ったのは7年前なので、それ以前の頃ですが)自然農法やパーマカルチャー、自然エネルギー地域通貨にどっぷりはまったグリーンでした。自分では気づきませんでしたがロマン派の影響を強く受けていたということです。

ウィルバーの「統合心理学への道」にこうあります。(以下、「存在することのシンプルな感覚」P120-P123より引用)

したがってロマン派的な見方をまとめれば、こうである。
人は無意識的な天国、無意識的な神的なものと合一していた
のが、その無意識的な合一を喪失して、意識的な地獄へ至る。
しかし、やがて、今度は意識的に神的なものへと再度の合一
を果たすのである。
・・・
この見方の唯一の、そして最大の問題とは、最初のステップ
、すなわち神的なものとの無意識的な合一の喪失が絶対的
に不可能である、ということである。何故なら万物すべては、
すでに神的なもの、すなわち存在の基底と一つだからである。
その合一を失えば、それは存在することを止めてしまう。
慎重に議論していこう。・・・

これが、無意識の地獄から意識された地獄へ、そして意識
された天国へ、という人間の個体発生の実際の軌跡である。
自己はいかなるときでも存在の基盤を喪失することはない。
・・言い換えれば、ロマン派の見方は二番目と最後のステップ
については正しかったのだが、幼児期を無意識の天国とした
ことでまったく間違えたのだ。幼児期は無意識の地獄である。
(引用ここまで)


ここでは結論だけで、もっと知りたい方は「慎重に議論していこう・・・」、以下を読まれることをお勧めしますが、昨日からの文脈でいうなら、こういうことでしょう。


無意識的な地獄とは、まだ自我に目覚めていない段階で小さな自己(エゴ)に対しても気づいていない状態。


意識的な地獄とは、自我が発達し、小さな自己を本当の自分を考え、疎外されたこの世界でもがき苦しみまさに「この世は地獄」と認識される状態。


意識的な天国とは、大きな自己に気づき、客体などなかったことに気づき、疎外は幻想にすぎないことに気づいた状態。


ということだと思います。

自然回帰や太古への回帰はこの履き違えから生じたものでしょう。
グリーンを超えるための重要なヒントの1つがここにあると思います。