この文章だけですべてをあらわしているのではないかと思われるくらい、すばらしい文章がありました、というかすばらしい文章だったんだ、とあらためて気づきましたので紹介します。
私なら「トロピカルフィッシュの泡音♪」と答えそうな「片手の拍手とは?」についてです。
「万物の歴史」からの抜粋で「存在することのシンプルな感覚」P224~P226からの引用です。
片手の拍手はどんな音がするのか(隻手の音声)、という禅の公案をご存知だろう。勿論、拍手するには両手が必要である。それが通常の経験の構造である。・・主体と客体という「両手」の経験をもっているのだ。通常の経験とは、ここで手を打ち合わせる、・・そしてそれが音となる。外側にある客体が、主体としてのわたしにぶつかる。そしてわたしは経験をもつ。・・通常の経験の構造とは、顔へのパンチのようなものである。通常の自己とは完全に打ちのめされた自己である。・・通常の自己とは傷だらけ、青あざだらけである。・・この青あざこそドウッカ、苦しみなのである。・・
非二元の状態であると、そこに両手はなくなる。主体と客体は一つの手となる。あなたの外側にあるものがあなたにぶつかるということはない。傷つけたり、苦しめたりすることはなくなる。突然、あなたは経験をもつということがなくなり、あなたが経験となる。そしてあなたはすべての空間へと解放される。あなたとコスモスは一つの手、一つの経験、完全なるものの身振りとなる。・・
では片手の拍手とはどんな音がするのだろうか?・・山々に指す陽光が見えるだろうか?涼しい風を感じるだろうか?これ以上、明白なものはどこにあるのだろうか?・・ある禅の老師が言ったように「鐘のなる音が聞こえる時、そこにわたしも鐘もない。あるのは音だけである。」・・あるのは直接的な意識それ自体である。片手の拍手の音は、それである。・・・(引用ここまで)
すごいですね。感動しました。なんだか最近書いていることを総括したような文章です。
「世界をありのままに見る」とは目撃者によるレフェランの如性の認識であり、レッテルを貼らずに(シニフィエに影響されず)無分別知によって認識することでしょう。
そして「あるがまま」とは経験を客体化しないこと。経験を解釈して思考でストーリーを作り上げ、その経験の繰り出すパンチにやられるのではなく、その経験の如性をあるがままに受け入れ「一つの手」となることでしょう。
2007年6月18日のブログで「千の風になって」と「空」なるあなた、というタイトルで書いたことを思い出しました。そしてケン・ウィルバーならこういうかもしれないと思いました。
死によって千の風になるのではない。常にすでに、あなたは千の風であったのだ!
と。