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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

偽善の構造

2月11日に少し取り上げた偽善の構造について考えてみたいと思います。これは2006年08月08日(火)「特別扱いできない、という遂行矛盾」として書かせていただいたブログと共通点があります。

インテグラルジャパンの鈴木規夫氏の記事『Boomeritis Spirituality』が、大変参考になりました。言葉を借りながら私なりに書いてみたいと思います。

脱構築ポストモダニズムという思想背景があって、この特徴は

あらゆるものは歴史的構築物(あるいは文脈)である、ということ。

→したがって、あらゆる価値判断に優劣はない(という短絡化)。

→であるから、多様な存在をありのままに許容・抱擁されるべき。

簡単にいうとこのような論理展開だと思われますが、『多様な存在をありのままに許容・抱擁されるべき』という自らの主張そのものを普遍化する、あるいは優れた価値判断とする、という自己矛盾、遂行矛盾をきたしています。それにもかかわらず、それに気づいていないのです。

これは、「人の意見をよく聴こう」という「呼び掛け」のなかにも見て取れるのではないかと私は常々思っています。

(自分の意見を主張するだけでなく)「人の意見をよく聴こう」という価値判断自体には問題はありません。それはひとつの価値判断であります。しかしそう呼び掛け、その「人の意見をよく聴くべき」という主張を通そうする心には、こう言っている「自分の主張を聞くべきである」という遂行矛盾が感じられます。

自分のことは棚上げされているのです。


吉本的な表現をするなら「おーい、ちょっとみんな、自分のことばっかり言ってないで、人の意見をよく聴こうや!」と誰かが言ったとすると、「おまえもなー」とつっこまれるところ、だということです。

鈴木規夫氏の言葉を借りれば

価値判断という「悪」と位置づけられる行為を回避することをとおして、自己の「清浄性」(purity)と「特権性」(privilege)を確保したいという強烈な自己保全と自己特権化の欲求が息づいている。

のです。