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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

心を鏡のように用いる

Witness(目撃者) 荘子 あるがまま Let it goまたはLet it be

「存在することのシンプルな感覚」の最後の章「常に現前する意識の輝くような明晰性」は本当にすばらしい。どこもいいのですが、今日は目撃者がどのように目撃するのか、を荘子の言葉を引用して書かれた部分があるので取り上げたいと思います。

(以下P364より引用)
この単純で、常に現前する目撃者(ever-present Witness)は、まったく努力がいらないことに気が付く。音を聞くのに努力はいらない。あたりを見るのに努力はいらない。涼風を感じるのに努力はいらない。すでにして、それは起こっている。わたしたちは、ただ努力のいらない「目撃者」に安らぐだけである。わたしたちは、対象を追い求めない。あるいは避けない。なぜなら、「スピリット」はまさに常に現前する、常に今、ここにある「見者」であり、限界のある対象ではない。

そこで、わたしたちは、すべてのことを起こるがままにしておくのだ。まさに荘子の言うように「完全な人は心を鏡のように使う」〔至人の心を用いるは鏡の如し:訳者松永さん〕のである。「つかまえることも、拒否することもしない。受け取る。しかしいつまでも、つかんではいない」。鏡は、努力なしに像を受け取る。あなたが、今、努力なしに空を見るように。ちょうどそのように、目撃者はすべての対象を起こるがまま(arrow all objects whatsoever to arise)にしておくのである。

すべてのことは、単純な目撃者である努力のいらない鏡のなかで、起こるのである。(All things come and go in the effortless mirror-mind that is the simple Witness)

 


すなわち、鏡のようにあるがままを映し出す(シニフェをもたず)。すべてのことを起こるがままにしておく。追い求めることもせず、抵抗して避けることもしない。Let it be

心を鏡のように用いて、このように目撃する。姿三四郎…。柳生新陰流…(2006年07月30日(日)の「場所中心的自己」を参照)。日本人的には、「道のつくものを極める心境」は、まさにこの「心を鏡のように用いる」ではないでしょうか。