ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

本音とペインボディの混乱

本音とは本心から出た言葉であり、本音を漏らすとか本音を吐くというように、従来はネガティブな文脈で使われることが多かったように思います。しかしながら最近は「本音で語ろう!」や「本音トーク」というように、包み隠さず本心を出すということで、それはよいこと、という文脈で使われることが多くなってきたように感じます。

しかし、この本音で話すこと、本心からでた言葉だから尊重されるという風潮(?)、例えば「本音をいっただけや」という言い方が示すように本音だから正当化されるという傾向にはある種の混乱があるのではないかと思うのです。

ある会社では会議で「本音で話し合おう」ということを、あるときからスローガンに取り入れました。はじめはそれまでと違って、内容のある話し合いができるようになったと評価していたようですが、次第に個人攻撃などが激しくなり、退職者が相当なレベルに増えてしまったそうです。

心とからだに集積された古い感情の痛みをトーレはペインボディと呼んでいます。例えば「わたしはとても不幸だ」と考えている人はペインボディのスイッチがオンになっている人、スイッチがオフになっていても何らかの出来事がきっかけでペインボディは目覚める、といいます。

詳しくは、トーレのニューアースの「第5章ペインボディ−私たちのひきずる過去の古い痛み」に書かれていますが、私はこのトーレのいうペインボディが何かの引き金により活性化(休火山が再び活動を始めるように)すること、そしてマイナスの感情に支配されたあげく、ネガティブな言葉としてマグマが噴出すように外に吹き出ること、と「本音で語る」、「本心を出す」ということが混乱しているケースが結構多いのではないかと思うのです。

ペインボディが活性化することはむしろ過去の痛みの記憶に自分を同一化しているのですから、トーレの文脈でいうと、それは「本当の自分」ではありません。しかしややもすると「自分の中にそんな自分がいる」とか、「その自分こそ本当の私」などという考えに陥ってしまうこともあります。それはあきらかに混乱です。

では、そのようなペインボディが活性化し始めたと感じたらどうすればいいのでしょうか?

アンバー(ブルー)の価値観では「人前ではそんな言動は慎むべき」ということで押さえる(抑圧する)のが美徳でしょう。

グリーン/レッド複合体では、「抑圧せず言葉や態度に出すべき」、となるのでしょう。

そして私たちのスタンスは、そのような感情が活性化しそうであることを察知したら「鏡のような心で目撃する」ことでしょう。

そのような感情や感情と結びついた思考があることに気づき、そのことを認めながら、それに同一化するのでなく流れる雲を見るように目撃者に安らぐこと。

そのペインボディのもたらす思考から白昼夢に引きずり込まれたなら「おーとっと」と「今にあること」に意識を戻すこと(プロ野球選手のいう「只きた球を打つだけ」)、

そして私はそのペインボディではないと只々気づくこと、だと思うのですがいかがでしょうか。