ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

僕って何? 〜わたし観の転換〜

「僕って何」は芥川賞を取った三田誠広の本の題名ですが、(たしか高校生のときに課題図書で読んだ記憶があります。)この僕って何なのか、私とは?ということに関して、それまでの認識がまったく間違っていたんだ、(本のことではなく)と気づき始めたのはまだこの2、3年です。おそらく99%の人(いや98%かな?)は以前の私と同じように「わたし」というものを理解しているのではないでしょうか。

 

「あなたはどのような人ですか?5分間でPRして下さい」と質問されたら・・・「○○出身で、性格は○○、特技は○○、○○という実績があります。モットーは○○…」などというように頭に浮かびます。

すなわちあなたとは?ときかれると私は…と答えるのですが、その時すでに他人との違い、他の人と比べた特徴などを意識しています。そしてそのことは当然で、「自分の独自固有の長所を自覚し伸ばすことが大切!」などなどと教えられ、またそのように解釈される自分としての「わたし」を想定してきましたし、大抵の人はそうだと思うのです。

この「わたし」についての認識を改めること、(「わたし」観の転換といってもいいと思います)は、まさに天動説から地動説へのコペルニクス的転回であり、驚天動地、想像すらしなかった認識です。

多くの人はいつのまにか(おそらく生まれ出て名前がつけられ、それを自覚し始めたときから。「千と千尋の神隠し」の千尋が名前をとられることとも何か関係がありそうですが)「わたし」について間違った理解(言い過ぎなら一面的にすぎない理解)をしてきているのです。

ヒントはこの「わたしは」の「わたし」という主格をあらわす言葉にあります。「わたし」は客体ではなく主体をあらわしますので、対象になりえないはずなのです。ですから本来、わたしは○○です、という限定的な言い方(言葉とは区別し限定するもの)において、○○とは対象、客体を示すことになりますので、実は矛盾していることになります。主体は客体ですといっているようなものです。しかし本来の主体は客体化できないはずです。

ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」第8章「二のない一」P348に次の文があります。

「見るものを見ることはできず、聞くものを聞くことはできず、知覚するものを知覚することはできず、知るものを知ることはできない」

 

これは一読するとわかりにくいかもしれませんが「もの」を「主体」という言葉に置き換えるとよく分かります。

「見る主体を見ることはできず、聞く主体を聞くことはできず、知覚する主体を知覚することはできず、知る主体を知ることはできない」となります。

すなわち
見る主体は見られる客体ではないので見ることはできない。
聞く主体は聞かれる客体ではないので聞くことはできない。
…というように本当の主体を対象化して把握することはできないのです。では本当の主体である「わたし」とは何か?P349〜P350にこうあります。

あなたの「今」の意識のなかに安らいでいると、身体にある感覚を感じたり、思考が心の目の前を通り過ぎたりしていくことに気が付くかもしれない。

しかし、そこで一つだけ見えないものがある。あなたは「見ている人」を見ることができない。思考、事物、雲、山、これらは見える。しかし決して「見者」(Seer)は見えない。…そこでしばらくの間、ただこの「見者」だけになってみよう。見者に安らぐ。目撃者としてくつろぐ。見てはいるが、それ自身は見えないものとして、安らぐ。…あなたが「空」として安らいでいると、あなたはあなたの元初の顔に触れる。それは、あなたのもともとの顔、ビッグバン以前の顔である。

この偉大な「空」こそ、常にすでにあなたの真実の「自己」であった。それは決して見つけられたことはなく、決して失われたことはない。空とは、全宇宙が瞬間、瞬間に生起する、その偉大な「背景(バックグラウンド)」である。

 
この「わたし」にまつわる謎が解けた瞬間、点が線につながり、次第に面となってウィルバーの理解、禅の理解が進みました。

僕って何という観念をそのままに、その僕のアイデンティティを膨らます努力をすることよりも、「わたし観」を転換させることの方が、よほど大切なことだったのです。