読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

今、ここ NOWHERE

ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」P336に次のようにあります。

次元や延長をもたない点、持続や日付をもたない瞬間、それが「絶対」である。それはどこにもなく、あらゆるところにある。これが偏在〔あまねく、ある〕ということの意味である。絶対とは、同時にあらゆるところに現前し、あらゆる瞬間に完全に現前する。「どこにも神を見ないものは、事実どこにも見ない〔nowhere=now-here今、ここ〕ものとしての神を見る」のである。

 


Nowhereは「どこにも…ない(所)」という意味ですが、no-whereと分けるのではなく、now-hereと分けることもでき、そうすると逆説的な「今、ここに(ある)」という意味になります。この〔 〕の注釈は訳者の松永さんが書かれたもので、大変気のきいた解説だと思いました。

玄侑宗久さんの「禅的生活」の「考えることと瞑想の違い」という節p54にこう書かれています。

最も瞑想から遠いのが「連想」である。それは「考える」行為のなかでもいちばん遠くへ自分を運んでしまう。瞑想している場合、自分は「今ここ」に居るのだが、「考える」とは「今ここ」からいなくなることなのである。…つまり「瞑想」とは、明らかに「今ここ」でのリアルな体験なのである。

 



見ようと思っても見られない、探そうとしてもどこにも見つからない〔no-where〕。それは常にすでに「今、ここ」〔now-here〕にある、ということでしょう。面白いですね。

そして同じ本のP53で「今ここ」に身をおく瞑想の一つの方法を紹介しています。

たとえば意識が右の掌一ヶ所に集中すると我々はすぐに何かを考え始めることもできるが、意識を両手の掌に均等に分散してみていただきたい。その状態では理性的な思考がストップしていることに気づくだろう。慣れてきたら両手両足の四ヵ所に意識を分散したまま集中することも可能になる。

 

これはトーレのいうインナーボディと同じでしょう。両手の掌に意識を馳せるとたしかにいい感じですね。背中に意識をもっていったり、後ろ向きに歩くのも、同じ状態をつくるのに効果的な気がします。

前向きには考えながら歩いてしまいますが、後ろ向きには考え事をしながらなかなか歩けません。

私は学生時代ボルダリングフリークライミングの一種)が大好きだったのですが、手足が微妙なホールドを探って岩を登っているとき、まさに意識は「今、ここ」にしかありません。

なぜ当時それほど岩に惹かれたのか少し分かったような気がしました。