今日は4月11日に続いて「わたし観の転換Ⅱ」を書きたいと思います。
私たちは「私とはこのような人だ」と考えるとき、そのベースとなる自分の過去の出来事の記憶を持っています。このような記憶を自伝的記憶といいます。自伝的記憶は次のように説明されています。
【自伝的記憶】
人が生涯を振り返って再現するエピソードのこと。自伝的記憶は人生の目標や強い感情,個人的な意味を含んでおり、自己や個人のアイデンティティと密接にかかわっている。自伝的記憶には時間や場所の情報が付随しており、「私」にとって重要な意味をもっているとされる。一般に、想起時点からさかのぼるに従って思い出される出来事の数は減少するが、10歳から30歳にかけての出来事の想起が多い。これはその年代の出来事が人生にとって重要な意味をもっていることを示している。
どうでしょうか?このような記憶を10エピソードあげなさいといわれたら、あれと、あれと、それに、これも…というように現在の自分の形成に不可欠であった出来事をいくつか思い出せるのではないでしょうか。そのような自伝的記憶の種が芽を出し、茎を伸ばし、枝分かれして、現在の私の考える自分というものを構成しているように思えます。
ところが、ウィルバーやトーレのいうところによると、いや古今東西の宗教の真髄、永遠の哲学は「そのようなものを自分と考えるのはやめなさい」といっているのです。
「自己を習うとは自己を忘るることなり」(道元)「自己を忘れることは神を思い出すこと」(アル・ビスタミ)なのです。そのようなものを単に自分と思うところに苦しみがあると言っているのです。
これは大変なことです。
われわれは、そうして成長してきた自分のアイデンティティをもっと立派なものにしようと、水をやり、日を当て、自分の満足いくようなものに育てようとしますが、それは幻想に過ぎない、と賢者はいうのです。
Eckhart Tolle は A NEW EARTH のFINDING WHO YOU TRULY AREでこう書いています。(p193)
Going beyond ego is stepping out of content. Knowing yourself is being yourself, and being yourself is ceasing to identify with content.
ここのcontentとは年齢、健康状態、人間関係、経済状態、仕事や生活の状況、…などなど一般的にアイデンティティを構成している要素であり、自伝的記憶もその一つです。
そして(驚くべきことですが)このような自分についてのコンテンツとの同一化をやめることこそが、本当の自分を知ることであり、真に自分自身として在ることなのです。