ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

パウロのいう神の平安は躁的防衛か?

1月7日のブログに書いたように、配偶者や子どもなど自分と同一化していた親しい人を悲劇的に喪失した場合に、当初感じた苦悶や激しい恐怖に代わって、ふいに「いまに在る」という聖なる意識、深い安らぎと静謐と、恐怖からの完璧な自由が訪れることがある、とトーレは書いています。

そしてこれをパウロのいう神の平安であるといっています。

それに対し、小此木啓吾は「対象喪失 悲しむこと」の中で「躁的防衛」という心理を取り上げています。躁的防衛とは「死者を無縁なもの排除すべきものとしてあつかう心理によって喪の心理や自分自身の死の不安を心から追い払い心の安定を得ようとする」もので「心の苦痛を回避する術策」のことをいいます。

はたしてパウロのいう「神の平安」は「躁的防衛」の一つなのでしょうか?

小此木は躁的防衛には4つの態度があるといいます。


外的社会的世界への適応の努力が悲哀の心理を体験する苦痛からの逃避方法になってしまう「(1)適応への逃避と無関心な態度」、失った対象は自分にとってたいした意味を持っていなかった、だからショックもないし関係ないという「(2)失った対象を軽視する態度」、失った対象に対する怨みや憎しみをしきりに思い出しその対象を失った気持ちを紛らわしてしまう「(3)悪玉視する態度」、そしてアルコールや趣味・道楽への熱中、仕事への過度の没頭といった「(4)置き換えと耽溺による逃避」です。


(2)(3)(4)は取り上げて特にコメントするほどのこともありませんが、ただ少し引っかかったのは(1)で言及されている「外的な世界への適応の努力」です。詳しくはこうあります。「対象を失った人物は、自分の内的世界でどんなに激しい衝撃をうけ、悲嘆に暮れていても、外的な世界への努力をやめるわけにはいかない。葬儀、お通夜のときも、この努力は続けられる。」
ふ〜ん、なるほど。ということは…。
子どものお通夜や葬儀で、悲嘆に暮れているとは思えない母親の様子(1月7日のブログ)は、この小此木のいう外的世界への「適応の努力」によるものなのでしょうか?

それともトーレのいう「神の平安」なのでしょうか?


喪失により空洞化した自己、そこに光が差し込むというのがパウロのいう神の平安でしょう。こちらは「小さな自己が死んで大きな自己があらわれる」という永遠の哲学に共通した構造が背景にあります。
「適応の努力」により、そのことを考えないようにした結果なのか、自己の空洞に光が差し込んだのか、あなたはどう思われますか?
この点について、また日をあらためて取り上げたいと思います