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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

〈生態−認識的自己〉が〈大きな織物〉の糸に還元される病理

私がはじめてケン・ウィルバー著作を手にしたのは「万物の歴史」でした。あの「眼からうろこが落ちた」と感じたのはどこだったか?3日ほどパラパラめくっていて、先ほどやっと見つけました。完璧に書かれています。すばらしいです。まず、p302にこうあります。

気持ちのいい自然の散歩をし、意識がリラックスし、開放的になって、美しい山を見つめます。すると突然―突然見ている人はいなくなり、ただ山だけがある。そしてあなたは山なのです。あなたはここにいて向こうの山を見つめているのではありません。ただ山があり、そしてそれがそれ自身を見ているように思われる、またはあなたがそれを内側から見ているように思われます。山は、あなた自身の皮膚よりもあなたの近くにあるのです。

 
これは自然神秘主義の自己感覚を表現したもの(万物の歴史では支点7の段階となっていますが、最新のWilberⅤではレベルではなく、どの段階でも発現可能な一つの状態と位置づけている)で、言いかえるならそれは〈生態−認識(エコ・ノエシス)的自己〉であるといっています。
しかし、この段階に起こる病理があります。いや段階ではなく状態であるからこそ、グリーンの多元主義の段階で翻訳されることによって起こる病理と捉えた方がよいでしょう。その病理の起こるメカニズムをp307で次のように書いています。

かれら(いくらかのディープ・エコロジスト)は、この〈生態−認識的自己〉、それを(AQALの)右下象限、内面的次元をまったく抜き取った「われわれはみな大きな織物(グレート・ウェブ)のなかの糸である」という経験的全体論、右手的全体論、機能的適合に還元してしまうのです。…そもそもグローバルなシステムを考えうるところまで彼らを導いた六つまたは七つの深い変容(支点6,7までの発達段階)を無視したフラットランド地図へと還元するのです。
その結果、このほかならぬ真実で気高い〈生態−認識的自己〉の直感が、「われわれは大きな織物のなかの糸である」に折りたたまれてしまうのです。が、それはまさに〈生態−認識的自己〉の経験ではないのです。

自然神秘的体験では、あなたは織物の糸ではない。あなたは織物全体なのです。

 

この全体か糸かはまったく大きな違いです。糸と捉えた場合に大きな問題が起こります。そしてさらにこのフラットランド化の病理はエコファシズムへと発展します。p500にこう書かれています。

〈大きな織物〉が究極的リアリティなので、その〈大きな織物〉だけが全体性価値または内在的価値(ホロンの深さの価値、深さが増すほど内在的価値は大きくなる)を持ち、他のすべてのホロン(人間および人間外ホロン)は、いまやその〈大きな織物〉を自己創出的に維持するための道具にすぎなくなるのです。すなわち、他のすべてのホロンは〈大きな織物〉の部分または糸にすぎず、したがって外在的・道具的な価値(部分として他の者のための価値)しか持たないのです。言い換えれば、エコファシズムです。〈大きな織物〉だけが権利を持ち、他のすべてのホロンは結局その従属的部分になるのです。で、もしあなたが〈大きな織物〉の代弁(弁護)者なら、あなたは私たち全員に何をすべきか命令するようになります。なぜなら、あなただけが内在的価値の代弁者ですから。

 

このような誤った流れは、ブーメリティス仏教のなかで、すなわち常に現前するスピリットがグリーンのレベルを強化し、多元主義的な世界観を支持するために使われるようになることで、より深刻な問題を起こすことがインテグラル・スピリチュアリティに書かれています。

グリーンの多元主義はレッドのナルシズムを支え作動させてしまうことができる(グリーン/レッド複合体)からです。

なぜ、ウィルバーの著作の中に「つながり」や「関係性」を重視する記述が少ないか、分かったような気がしました。