ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

死の「受容」段階と「目撃者」

キューブラー・ロスは終末期にある患者へのインタビューにより、死を受容するプロセスを「否認」「怒り」「取り引き」「抑うつ」「受容」の5段階にまとめています。

すべての人が受容の段階に到達して亡くなるということではない(「死ぬ瞬間」中央公論新社)のですが、すばらしい心境で最後の「受容」の段階に達したと思われる例が、「余命半年」(緩和医療医大津秀一著)の最後に書かれていました。肺がんの末期で余命はもはや月の単位であった女性と大津先生の会話です。若い頃の結核療養所での思い出を話しながら彼女は言います。

(以下引用)
「今、私の病気にストレプトマイシンはないわ」…
「あれから六十年近く経った今、ここにストマイと同じような薬はない。でも私は大丈夫なの」
「大丈夫?」
「そうよ」
ふっと笑う。そして柔らかく暖かいまなざしでこう言った。
「二十一世紀の特効薬は…二十一世紀のストレプトマイシンは…心だったわ」
私は何か自分の身体を突き抜けるような感じがした。この言葉と、その発音と、あの表情は、まさに彼女にしか生み出せない空間だった。
「心、ですか?」
「ええ。私は間違っていました。病気が治らなくても、私を救うことはできるんです。私を薬が救えなくても、私を心が救うことはできるんです。私を、私が、救うことはできるんです」
「…なるほど」
私は考えた。
確かにそうだ。
「人は老いるし、病むし、死ぬわよね。現に私がそう」
「…」
「それを嫌だ嫌だと思っていたの。でもね、ある時から決めたの、それは仕方のないこと、だから楽しく生きようってね」
「ええ」
「そしたら、世界がまったく違って見えた。もちろん、しっかり先生は症状を取ってくれたからってのはあります。そうじゃなければ、こんな風に思えなかったと思う。緩和医療ってすごいですよね」

「ただ…緩和医療にも限界はある」
「確かに…その通りです。歩けなくなった人の辛さや、亡くなっていく人の根源的な苦悩を取り除くことはできませんから」
「…けれども、心がすべてを救うわ」
「心…」

「私、今が一番幸せなのよ」
部屋に一筋の光が差した気がした。
「ほら、空も晴れてきた」
…              (引用ここまで)

 
1月31日LET IT BEのブログでEckhart Tolleの「臨終の間際になると、深い平和に包まれ、まるで溶解していく形態を通過して光が輝くように、ほとんどまばゆいくらいになる人たちがいます。」という放下の境地を取り上げましたが、この女性もその一人でしょう。

そしてそれは完全な「受容」の段階の姿でしょう。注目すべきは「私を心が救うことはできるんです。私を、私が、救うことはできるんです」という言葉です。

「心」が私を救うといっていますが、この「心」とは前回のブログで書いた大文字のSelf(自己)であり、「こころ」(小さな自己)を観察することのできる目撃者(Witness)ではないでしょうか?

「私が私を救う」といっていることからも大きな自己が小さな自己を救うのだと解釈できます。大きな自己を「心」と表現してしまっているので分かりにくいですが、彼女のいっている「心」とは「大きな自己」である「目撃者」です。

目撃者が「嫌だ、嫌だ」といっている小さな自己である「こころ」を観察し、焼きつくしたのです。そして軸足が目撃者の方に移った瞬間、「世界がまったく違って見えた」のです。

死を「受容」する段階とは「小さな自己の死」、1月24日のブログの「死ぬ前に死ぬ」ことと大きな関係があるのではないでしょうか。