ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

フロイトの「それがあったところに、私はいるべきである」

前回、瞑想は影の解消に役立たないと書きましたが、なぜそうなのか?をもう一度おさらいしてみたいと思います。

まず、健全な超越とは何か?インテグラル・スピリチュアリティ第6章で訳者の松永さんが分かりやすい解説を挿入してくれています。

健全な超越とは、主格を使う思考・感情を、所有格・目的格を使うそれへと変換することである。主格から所有格への変換とは、たとえば「私は、強く怒っている」から「私は、私の強い怒りを観察している」への変換ということである。主格から目的格への変換とは、たとえば「私は、強く怒っている」から「私に、強い怒りが起こっている」への変換ということである。

それに対して、影の病理とはどうなることか?引き続き松永さんの解説を引用すると

逆に不健全な超越とは、私という一人称の「怒り」を、二人称の「あなた」、三人称の「彼、彼女、それ」を主語とする「怒り」に投射して、疎外することである。「私が怒っている」から「あなたが、怒っている」「彼女が怒っている」への変換、自己疎外である。

 
このように書かれています。すなわち、主格→所有格→目的格という変換は健全で、一人称→二人称→三人称という変換は病理だということです。さらにp180から三人称の「それ」となった影の例を引用します。

典型的な分離の中で、私の「怒り」の感情は、・・・三人称の「それ」にさえなる。・・・これらの「それ」の感情や対象は完全に私を混乱させる。すなわち、この憂鬱、「それ」がやってくる。・・・この頭痛、「それ」がどこからやってくるのかわからない。・・・私は、いい人であり、怒りなど持ったことがない。それにしてもこの頭痛には本当に悩まされる。

 
このようなことから、三人称化された「怒り」をもう一度、一人称として再び所有することがプロセスとして必要になります。これが、心理療法の目的です。そしてこのプロセスをモジュール化したのが「3-2-1Shadowプロセス」ということなのでしょう。

「イドがあったところに、エゴがあるべきである」というフロイトの言葉は、英訳したジェイムス・ストレーチがエゴとイドというラテン語を用いたため曖昧にされたのだそうです。

実際に、フロイトが使った言葉は「それがあったところに、私がいるべきである」であり、美しい言葉だとウィルバーは言います。

三人称に分離された「それ」を、再び自分のものとして再所有するべきであるという意味で「それがあるところは、本来は私がいるべきところ」だとフロイトは言ったのであり、「3-2-1Shadowプロセス」はそのフロイトの言ったサイコセラピーをプラックティスに簡略化したものだと分かります、

では瞑想との関係はどうなのでしょうか?「怒り」が抑圧され分離されて影となった場合、三人称に変換された「怒り」はもはや私のものと自覚されていないから、それをいくら瞑想しても、「いったん抑圧が起こると、怒りを経験することはできるが、怒りをもっていることを認めることは、もはや、しなくなる」とあります。

すなわち、抑圧が影を生じていない段階では健全な発達に向かうために瞑想は効果的だが、一度影をつくってしまってからでは怒りをもっているのは「私」ではなく「あなた」あるいは「彼」なので、いくら目撃しても「あなた(彼)は怒りをもっている」と観察してしまい、分離を拡大するだけであるということです。

瞑想を万能とせず、西洋心理学のよい点を取り入れて統合するこうした方法、「誰もが正しい、どれも正しい、ただし部分的に、自分を含めて」(Every perspective is both true and partial, including your own.)というウィルバーの一貫したスタンスに、私はとても好感がもてます。