ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

おくりびと(統合的倫理3)

 

先日、「おくりびと」を見ました。以前に、映画館で見たので今回が2回目です。映画館で見たとき以上に涙が出ました。たいへん良かった気がします。見ていたときに気づいたのですが、この映画は、世界観としてはアンバーvsターコイズが描かれており、AQALとしては統合的倫理の右上象限であるBehaviorに焦点があてられた作品だと。

おくりびと」は東京で失業したチェロ奏者の主人公が実家のある東北の出身地の町に妻と戻ってくるところから始まります。そこで勘違いから納棺師の会社に入社してしまいます。主人公は勘違いと分かった後、強くやめようとしなかったことから、この職業に対する偏見は少なかったのだろうと思われますが、地元の人や昔の友人の「もうちょっとましな仕事」などの言葉から、彼らは遺体に触れる仕事は忌み嫌われる職業であるという地方の町でのありがちな慣習的な職業倫理感を抱いていたことが分かります。

この意味において昔の友人はアンバーであったといえます。加えて、東京からついて来てくれた妻も、到着当時のグリーンな発言とは裏腹に、汚らわしい!といって実家に帰ってしまいます。彼女も当初、この点においてはアンバーであったといえるでしょう。
しかし、納棺の会社社長が実際に納棺する洗練された(skillful)所作(Behavior)を主人公は見ます。そしてその神聖さを感じ取り、その仕事を続けようとするのです。この納棺師の仕事はフロイトのいう「喪の仕事(mourning work)」をサポートする職業であるといえます。家族との死別において病的な悲嘆(対象喪失を悼む営みが未完成なままになる心理状態が心の狂いや病んだ状態を引き起こすこと)に陥らないために適切なグリーフワークが行われる必要があります(小此木啓吾対象喪失」参照)が、葬儀もひとつのグリーフワークであって特に死化粧や納棺といった儀式は、その後の長い悲嘆を癒すプロセスの初期段階の節目のワークであるといえます。


 映画では、経験を積むにつれて洗練されていく主人公の所作(Behavior)が特に見事です。偏見を持っていた友人も、自分の母親の遺体に尊厳と慈悲をもってワークを進めていく主人公を目の当たりにし自身の偏見を改めます。妻もこの時、夫の仕事をはじめて目撃するのです。
主人公も会社の社長も深い考えや論理などを口に出すことはありません。しかしその所作がすべてを物語ります。CareとCompassionの深さが表現されているのです。そして火葬場の職員のいった「門」という表現も象徴的でした。火葬は門であるという言葉を聴いたとき、「死ぬ前に死ぬ」で語られる無門関の門なのだと思いました。そして生の反対が死なのではなく、死の反対は誕生であり、誕生と死は門なのだと。このようなある意味、生と死の統合をはじめる価値観の段階とはアルケミストであるターコイズに他なりません。そのような連想が頭をよぎっていったのでした。

統合的倫理ではAQALの左上がMorality、右上がBehavior、左下がEthics、そして右下がLawsとなっています。それぞれ道徳、行動、倫理、規範と私は訳しました。ILPのp266でBehaviorは次のように解説されています。(以下拙訳)

右上象限、It
あなたはどんな行動(Behaviors)をとりますか?それらのより大きな衝撃とは何でしょう?
 もしボディが神殿(temple)として考えられるなら、あなたがこの神聖な乗り物をどう扱うかは、右上象限の倫理的実践の役目です。実習への関心ある活動、ダイエット、容姿、ドラッグの使用、整形手術のようなものでさえ、これに含まれます。しかし思い出してください。右上象限の倫理が機能できる複数のレベルが存在することを。 統合的倫理は、ボディを非慣習的な方法で使用したり、修正したりすること(脳内の化学成分そして遺伝的特徴、微細、元因エネルギーの管理を含めて)を必ずしも必要とはしません。それは、前慣習的な倫理表現とポスト慣習的な倫理表現を見分けることを私たちに求めます。両方とも非-慣習的であるため、それは時々用心しなければならないように見えるのです。
 身体的倫理の拡張として、あなたは自然なもの、文化的工芸品あるいは人の所有物であろうと、どのように「it」を扱おうか、と考えるかもしれません。例えば、ラップトップパソコンや自動車を扱うように倫理をそうできるでしょうか?本や美しい絵画は?あなたとこれらのものとの関係は単に道具的なものではないかもしれません、あるいは感傷的に変わるかもしれません。しかし、そこには意味があります。その中に、生活の中でそのものをどう扱うかに関してあなたは倫理的選択を有しているのです。行動は、実践的な現実世界の言葉ですべての他の象限へと届く、雄弁で力強いあなたの倫理表現なのです。(拙訳ここまで)

特に、「あなたがこの神聖な乗り物をどう扱うかは、右上象限の倫理的実践の役目です。」という表現にBehaviorの意味がこめられていると思います。このtreatmentの深さが映画「おくりびと」の評価につながったのではないでしょうか。日本語には所作という言葉があります。Behaviorを文脈に応じて行動、行い、ふるまい、所作などと訳してきましたが、「おくりびと」で表現された主人公のBehaviorはまさに「所作」と訳すのが最も適切であると感じています。