ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

見性と悟り

ウィルバーのIntegral Life Practiceのスピリットモジュールの中に、実践と見性、そして悟りの関係が説明されている節がありました。状態(state)としての見性、段階(stage)としての悟り、という捉え方で分かりやすかったです。P205のCan you feel it?から紹介します。(以下拙訳)


私たちのほとんどは、人生のいくつかの地点で、スピリットに触れられてきました。あなたは次のような力強い経験をしたことがあるでしょう。

Oneness
Love
Grace
Light and illumination
Ecstasy
Freedom, flow and Synchronicity (“the Zone”)


 あるいは、ユニークで個人的な著しい何かの直覚、しばしば信じられないような。無限に多様なスピリチュアルな経験があります。
 あなたがスピリットを認識した最初の瞬間から、物事は異なってきます。あなたは何かすばらしいものにずっと接していたのです。それはとてつもなく大きく、信じられぬほど力強く、無限に善良で、意識的でかつ/あるいは愛があります。あなたはそれを「神」と呼ぶでしょう。―あるいはあなたはそれを「スピリチュアル」と考えるかもしれませんが。それはあなた自身の中に姿を現します。あなたはそれに優しく抱かれ、注ぎ込まれ(infused)ます。あるいはそれ自身があなたとしてベールを脱いだともいえます。―少なくともしばらくの間。・・・
 大抵の人々は潜在意識的あるいは意識的なそれの感覚をもっています。より幸福なヴィジョン、もっと愛のある、啓発された、神聖な人間存在―より高いリアリティと可能性の直覚は、より深い豊かな人生の道への関心に火を燈します。そしてその直覚はスピリチュアルな実践への興味へと容易に成長するのです。
 数え切れないほどのスピリチュアルな実践があります。:瞑想、祈り、そして感謝;歌と踊り;呼吸と礼拝と祝福;祭壇と礼拝の場所を作ること;神聖な絵画の創作;そして奉納。伝統的に瞑想と祈りは、より高いレベルの意識を涵養する実践の中心的次元であったといえます。それは「ラジャ」(インドの王)あるいは「ロイヤル」ヨガと呼ばれました。それは現代の視点からでさえ、最も研究され、正当性の確認されたILPの側面の一つです。
 それは私たちの実践の全体をしっかりと支え正しい方向に向ける方法の一つでもあります。スピリットとの接触をもつことは、スピリットの経験を涵養することを包含します。これらのスピリチュアルな経験のほとんどは、Integral用語でいうところの、高い(high)、あるいは、修練を積んだ状態(trained states)(あるいは「至高体験」)です。それらは永遠に続くものではありませんが、超越的な視点の一瞥を授けます。時々は視点の超越さえも一緒に。これらの一瞥は私たちを変えます。それから、私たちは繰り返し高い状態に入りながら、残りの人生を通して、より充実し、しっかりとより高い状態でいることができるようになります。私たちが目覚めていようと、夢見でいようと、眠っていようと。繰り返される至高体験は私たちの中のこうした変化を深め、堅固にします。それらは私たちの気づきを広げて深め、より広くて深い視点を持つことを可能にするのです。こうして、それらは私たちの高い段階への発達的な成長を加速することができます。
 高い状態は育まれますが、スピリチュアルな実践とスピリチュアルな目覚めとの間に、1対1の相関関係があるというのではありません。どんな一連のタイムスケジュールも、いつ高い状態が恒久的なより高い段階に安定するのかを決定することはできないのです。
 言い換えると、禅のリチャード・ベイカー老師のいう「瞑想は悟り(enlightenment)を連れてくるのではない。悟りは幸運なアクシデントである。規則正しく坐って実践することはそれを保証することはない。しかしながら、それはあなたのアクシデントを起こしやすくするのだ・・・」ということです。〈訳注:この文脈では状態としてenlightenmentが述べられています〉
 これがなぜ瞑想、その他の高い状態を涵養する実践が、ILPのスピリットモジュールの中心的特徴であるのかという理由なのです。(拙訳ここまで)

そして、別枠で実践と見性、悟りの関係がこう説明されています。(以下拙訳)

Visiting High States for Lasting Benefits

日本の禅では、解放の力強い一瞥は見性(kensho)と呼ばれます。もっと目覚めが続くことを悟り(satori)といいます。サンスクリットでは実践はサーダナー(sadhana)と呼ばれます。
それはこのように言えます。
 見性はサーダナーを引き起こし、
そしてサーダナーはより多くの見性を来たし、
そして多くの見性が悟り―そして解脱を生じさせるのだ。(拙訳ここまで)

まず、幸運な見性があり、そしてその見性が実践の意欲を引き出し、そして実践が見性の発生率を上げるということです。そして状態としての見性の頻度が高まることで、段階としての悟りが定着するというプロセスなのです。なるほど分かりやすいですね。道元も同じようなことをいっていたように思います。


確かにこのILPの実践を習慣化するとFlow やZoneの発生頻度が上がることは十分予想できます。スポーツでの応用例などもっと知りたいですね。これからもっと出てくるのではないでしょうか。どうもこのILPは日本でもどこかで火がついて広がるのではないかと思います。相当に洗練されて大変よくできているからです。皆さんはどう思われるでしょうか?