ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

I AMマントラ瞑想

このI AMマントラ瞑想はILPの中で以下のような解説で始まります。

このガイド付き瞑想は、あなたを目撃者意識(witness consciousness)の中心に連れて行きます。あなたの生来の気づき(native awareness)、存在としてのシンプルな感覚(simple feeling of being)あるいは”I AMness”そのものに。

6月26日のブログでI AMnessの前の方の一部を原文のまま取り上げました。今回は後半の方から一部抜粋して訳したものを吟味してみたいと思います。(以下、抜粋拙訳)

 5世紀前は何が現前していたでしょうか?
 すでに現前しているものはすべてI AMnessです。すべての人はこの同じI AMnessを感じます。なぜならそれは身体ではなく、思考でもなく、対象でもなく、環境でもなく、見られうるどんなものでもなく、むしろすでに現前する見者(Seer)であるからで、継続する開けそして空なるすべての目撃者(Witness)です。それはどんな人にも、どんな世界にも、どんな場所にも、どんな時でも、時の終わりまですべての世界の中で生起している目撃者であり、この明白で直接のI AMnessだけが常にあるのです。一体ほかに何を知ることができるでしょうか?誰が何をそのほかに知っているというのでしょうか?今であろうと、5分前であろうと、5時間前であろうと、5世紀前であろうと、唯一、常にこの輝ける、自己を知り、自己を感じ、自己を超越したI AMnessだけがあります。
 5千年前は?
 アブラハム以前に在ったのは、I AM。宇宙以前に在ったのは、I AM。これはあなたの本来の面目(original face)であり、あなたの父母が生まれる以前のあなたの顔、宇宙が誕生する以前のあなたの顔です。あなたは、隠して探すこの役割を演じようと決心して以来、その顔を、あなた自身の創造物の対象の中に見失ってきたのでした。
 あなたはあなた自身のI AMnessを知らない、あるいは感じとれないふりをする必要はありません。
 そしてそれとともにゲームは終わるのです。百万もの思考がやって来ては去り、百万もの感情が来ては去り、百万もの対象が来ては去りました。しかしやっては来ないものが一つ、去っては行かないものが一つあります:偉大なる未生(Unborn)、そして偉大なる不死(Undying)、それは決して時間の流れの中に入ってこないし、出て行きもしない、永遠の中に浮かぶ、純粋な時間を超えた現前(Presence)です。あなたはこの偉大にして、明白な、自己を知る、自己を承認する、自己を解放するI AMnessなのです。
 アブラハム以前に在ったのは、I AM。
 I AMはまさしく1人称のスピリットです。究極の、崇高な、すべてを創造する輝かしい完全なKosmosの自己、あなたと私と私たち、彼と彼女と彼ら全員に―私たちの各々がそしてすべての人(every one)が感じるI AMnessとして―現前するのです。
なぜなら知られた宇宙すべての中で、I AMの全体としての数字はたった一なのです。(the overall number of I AMs is but one)
 I AMnessとして常に落ち着きましょう。あなたがたった今感じる、はっきりとしたI AMness、ちょうどありのままのそれは、未生のスピリットでそれ自体があなたの中で、そしてあなたとして輝いています。これあるいはその対象と同様に、これあるいはその自己と同様に、これあるいはそのものと同様に、それの背景(Ground)の中に常に安らいでいるすべて(All)を、あなたの個人のアイデンティティと見なしましょう(Assume your personal identity)。この偉大なそして完全に明白なI AMnessとして立ち上がり、あなたの日を進み続けましょう(go on about your day)。I AMが創造した宇宙の中で。(抜粋ここまで)

いくつか吟味してみたいと思います。まず、

それは身体ではなく、思考でもなく、対象でもなく、環境でもなく、見られうるどんなものでもなく、むしろすでに現前する見者(Seer)であるから

このSeerという表現こそポイントです。見るもの(Seer:主体)は見られるもの(客体)ではないのです。すなわち見ることのできるもの(客体)は主体ではない。ということは本当の主体は、絶対に見ることができない、のです。それが目撃者(Witness)であり、主体としての空です。このことに気づいたとき私の中で何かがパチンと弾けました。

これはあなたの本来の面目(original face)であり、あなたの父母が生まれる以前のあなたの顔

Original faceを本来面目と訳すというのは松永さんの訳を参考にさせていただいたのですが、最初の頃は意味がよく分かりませんでした。しかし以前書きましたように、道元

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて冷しかりけり

本来面目という歌であることを知り、驚きました。そしてそうか!と思ったのでした。この句の主体こそI AMness、すずしかりけりと感じているのはI AMだということです。

あなたと私と私たち、彼と彼女と彼ら全員に―私たちの各々がそしてすべての人(every one)が感じるI AMnessとして―現前するのです。なぜなら知られた宇宙すべての中で、I AMの全体としての数字はたった一なのです。(the overall number of I AMs is but one)

「すべての人」と訳しましたが、every oneというようにeveryとoneが離れて二つの単語になっています。これは意味深です。

everyoneは、本当はevery oneだとウィルバーは言いたいのでしょう。

だから、全体としての数字はたった一なのです。number of I AMsのAMが複数形になっているのが分かります。それぞれのI AMを足して全部の和はI AMsと複数形になるはずですが、そうではなく単数の一だから、but oneと書かれているのです。One tasteOneです。興味深いですね。

それの背景(Ground)の中に常に安らいでいるすべて(All)を、あなたの個人のアイデンティティと見なしましょう(Assume your personal identity)

Groundが大文字になっているのは絶対の主体である目撃者(Witness)だからでしょう。Allは客体だと考えられますが大文字になっているのは、主客合一されるべき客体だからではないでしょうか。分離したアイデンティティを脱ぎ捨て、ever-present awarenessの中で生起するすべてを抱擁し、自分自身のアイデンティティとすることを意味しているのだと思います。

その文章の最後は、次のように締めくくられています。

この瞑想実践のあとで、あなた自身のI AMnessの根本的な深さの理解に根ざしながら、あなたはその二つのシンプルな単語を使ってシンプルなマントラ瞑想を行うことを選択してもかまいません。

なるほど、だからマントラ瞑想なのですね。