ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

非視点的狂気

10年前に私自身が陥っていた非視点的狂気とは何であったか?もう一度少し整理をしてみたくて「進化の構造」と「万物の歴史」からいくつか関連した文章を抜粋してみました。

以下「進化の構造」より抜粋
P308「緑の運動」は本質的にマルキシズムと同じ欠陥を抱えているからである。二つとも低位は高位より基礎的である(したがって低位は高位に対して必要ではあるが十分な条件ではない)という疑いようのない事実によって、高位のレベルを低位にレベルに縮小・還元してしまう。マルクシストがすべての問題を物質圏における経済的な交換に還元・縮小したように、「緑の運動」はそのすべての問題を生物圏(バイオスフィア)におけるエコロジカルな交換に還元・縮小する。・・・「緑の運動」は「まず最初に尊重する」ことと「最初から最後まで敬意を払う」ということを取り違えているのである。

→9月17日のブログで取り上げた基底的価値(Ground value)と内在的価値(Intrinsic value)の混乱ということでしょう。

P298ポストモダンのポスト構造主義者は、いかなる文脈も、また視点も最終的なものではないという言い方から、いかなる視点も他の視点に対してどのような優位性も持たないという言い方にまで走ってしまい、そのままどこまでも無限のホロンの迷宮のなかへ操縦不能のまま突っ込んでいき、非視点的な空間の中で迷子になってしまったのである。・・・「最終的な視点は存在しない」(あるいは「視点は無限にある」)という言い方から、それゆえ「どの視点も他の視点に対して優位性を持たない」という言い方にまで走ってしまった。

→深さを認められないというグリーンの病理です。

P318「多元文化主義的運動」は、・・・それは正しい方向へのステップである。そして意図も間違ってはいない。ただ結局は自己矛盾を起こし、最終的には偽善に陥ってしまう。
P319言い換えれば、多元文化主義は、非視点的-統合構造へ移行しようとする高貴な企てであるが、・・・どの視点も最終的ではないという事実と、どの視点も単に平等であるという観念とを完全に混同してしまっているのである。・・・つまり文化多元主義は「究極の立場はない」ということから「すべての立場は同じように受容されるべきである」という立場に退行し、そのため自分自身の正確な判断、すなわちより狭い視点、より小さな視点は受容できないという判断を抑圧するか否定してしまっている。

→2つのパターンがあるような気がします。ひとつは、他人の価値観を評価することを意識的に避けること(いろんな考えを認めて行こうとすること)で、自分のエゴに対しても他人からとやかく言われる筋合いはないというレッドの衝動を活性化し、グリーン/レッド複合体となって退行していくパターン。もうひとつは、すべての価値観を等しく認めようとするがあまり、(判断することも罪悪となることで)判断ということができなくなり、動けなくなるというパターン、です。

P320最近、合衆国の法廷で次のような例があった。中国人の夫がその妻(やはり中国人)が浮気をしているのを見つけ、ハンマーで殴り殺してしまった。彼は「文化の相違」を訴えた弁護により無罪となった。なぜなら彼は本国の中国人ならやることをやったまでであり、そうした文化的な相違には敬意を払うべきであり、またどの視点も別の視点よりも良いものはないためである。これは非視点的な狂気である。

以下、「万物の歴史」から抜粋
P288
質問者:あなたはこの自由を「無遠近法的(aperspectival)」と呼んでいますね。
ウィルバー:そうです。ジーン・ゲプサーの用語ですが。ヴィジョン・ロジックは異なった遠近法〔ここは視点と訳した方が良いと思うので、以下視点と括弧書きします〕すべてを合計しており、ですからどれか一つを他に対して自動的に特別扱いはしません。つまり、無遠近法的〔非視点的〕なのです。が、異なった遠近法〔視点〕すべてを考慮しはじめるにつれて、非常に眩惑的、非常に無遠近法的、非常に無方向的になります。そしてあなたはヴィジョン・ロジックのこうした新しい無遠近法的〔非視点的〕な意識のなかでひどく道に迷う可能性があるのです。しかし・・・すべての遠近法〔視点〕は相対的だということは、それでもあるものが他のものよりいつも相対的に良いということを妨げるものではないのです!・・・しかし、そのことを忘れ、たんに遠近法〔視点〕の相対性に集中すると、無遠近法的狂気、意志と判断の眩惑的麻痺に陥ります。「それはすべて相対的である。それゆえより良いもより悪いもなく、そしてどの姿勢も他より良くはない」というわけです。その姿勢自体が代わりのものより良いと主張しているという事実を見逃しているのです―標準的遂行矛盾です。多文化主義者たちはときどきヴィジョンロジックのこのレベルに上がり、ふつうはすぐに無遠近法的な狂気で倒れるのですが、それを可愛らしくて疑うことを知らない学生たちに売りつけるのです。

→この「遂行矛盾」に気づいたとき、私は「まいりました!」と言ったように思います。私の無遠近法的狂気=非視点的狂気が終わった瞬間でした。

最後にIntegral Life Practiceからグリーンを超えた(したがって非視点的狂気を超えた)第二層の世界観であるティールをもう一度紹介して終えたいと思います。

TEAL−Integral Systems Worldview 統合的システムの世界観
意識はティールへと成長するにつれ、本質的なものに気づきます:すべての視点はリアリティのいくつかの重要な側面を極めてよくとらえますが、しかし各々の視点は物事の他の側面にあまり重きをおかない、あるいは周縁化するのです(それは、each is true, but partial各々は正しい、ただし部分的に)。ティールはまた、いくらかの見解は他より、より正しく、より部分的ではないsome views are more true, and less partial than othersことも理解します。言い換えれば、全ての見解は対等ではない;深さが存在するということです。
 世界観は今や、発達の深さと増大する複雑性の網目状のヒエラルキー(ホラーキー)として一緒に見られます。ティールは、自民族中心主義が自己中心主義より深く、世界中心主義は自民族中心主義より深いことを認識します。グリーンの世界観はその判断を下すことができないのです。消滅してしまうような以前の世界観などないこともティールは認識しています。それらのすべては進化のダンスのなかで姿を現すのですから、それぞれ(そしてすべての存在は)は配慮と尊敬に値するのです。ティールは深さと幅の両方を理解します。ティールの世界観はより広くてもっと異なる視点を取ることに能力と関心を持ちます。そのことにより、複雑で相互連結的なシステムを使って、もっと効果的に見て、働くことができます(それらが心理学、人間関係、組織の領域に位置しようと、あるいは世界的な機関であろうと)。これは、ティールの高度で活動(operate)する個人にとって、明晰性、創造力、効率性そしてコミュニケーションスキルにおける「由々しき跳躍」(a momentous leap)を生み出すのです。