ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

見られるものは見るものではない、そして自由

見られるものは、見るものではない

最初にこの文を読んだときは、正直言ってどういう意味かよく分かりませんでした。

しかし、主体、客体という言葉に代えて読んでみると分かるようになりました。

見られる客体は、見る主体ではない

さらに客体を対象という言葉に換えると、もっとよく分かるようになりました。

見られる対象は、見る主体ではない

見る主体を見者という言葉に置き換えるとこうなります。

見られる対象は、見者ではない

英語で読んでみると理解しやすくなりました。

As you rest in your present awareness, you might perceive some sensation in the body, or you might be aware thoughts passing by in front of the mind’s eye, you might be seeing the clouds float by. But there is one thing you cannot see: you cannot see the Seer. You see thoughts, things, clouds, mountains, but never the Seer, never the Self, never the pure Witness.(The Simple Feeling of Being p237)

この大文字のSeerを「見者」と訳した松永さんのすばらしい訳はこうです。

あなたの「今」の意識のなかに安らいでいると、身体にある感覚を感じたり、思考が心の眼の前を通り過ぎたりしていくことに気が付くかもしれない。しかし、そこで一つだけ見えないものがある。あなたは「見ている人を見ることができない」。思考、事物、雲、山、これらは見える。しかし決して「見者」は見えない。「自己」、純粋な「目撃者」は見えない。

この松永さん訳の「存在としてのシンプルな感覚」のp363〜364にこう書かれています。この部分はAlways Already: The Brilliant Clarity of Ever-Present Awarenessの訳なので原文をhttp://integrallife.com/で見ることができます。大変理解が深まりますので、少し原文対比で抜粋して紹介させていただきます。

「スピリット」を理解することが困難なのは、それを何か意識の対象、把握の対象として見ようとするためである。究極のリアリティは、見られるものではない。それは見者である。「スピリット」は対象ではない。それは根本的に、常に現前する「主体」である。したがって、それは岩やイメージ、光、感情、直感、輝く雲、ヴィジョン、至福の感情のように、あなたの前に飛び出してきたりすることはない。それらはすべてけっこうなものであっても、対象であり、それは「スピリット」ではない。

People sometimes have a hard time understanding Spirit because they try to see it as an object of awareness or an object of comprehension. But the ultimate reality is not anything seen, it is the Seer. Spirit is not an object; it is radical, ever-present Subject, and thus it is not something that is going to jump out in front of you like a rock, an image, an idea, a light, a feeling, an insight, a luminous cloud, an intense vision, or a sensation of great bliss. Those are all nice, but they are all objects, which is what Spirit is not.

 目撃者に安らぐ時、あなたは何かを特に探求しているわけではない。真の「見者」を見ることは、決してできない。そこで、あなたは、すべての対象から自分を引き離すことからはじめるのである。

Thus, as you rest in the Witness, you won't see anything in particular. The true Seer is nothing that can be seen, so you simply begin by disidentifying with any and all objects:


 わたしは、自分の身体の感覚に気が付いている。これらは対象である。わたしは、これらの対象ではない。わたしは、自分の心に浮かぶ思考に気が付いている。これらは対象である。わたしは、今、この瞬間の私自身に気が付いている。それもまた対象であり、それはわたしではない。

〔私はこの文章は「心身脱落」を表現したものと考えています。前回にはsubtleエネルギーを利用した「心身統合」に触れましたが、ここで書かれていることは、その次のステップである自己から身体と心が脱落するメカニズムではないでしょうか。道元が見性を得た心身脱落です。ただ片手の拍手の中にも心身脱落を示した文章があるので、さらに次のステップの非二元である主客合一をもってそうなのかどうか疑問の残るところでもあります〕

I am aware of sensations in my body; those are objects, I am not those. I am aware of thoughts in my mind; those are objects, I am not those. I am aware of my self in this moment, but that is just another object, and I am not that.


 風景が、自然のなかに通り過ぎていく。思考が心のなかに通り過ぎていく。感覚が、身体のなかに通り過ぎていく。わたしはそのどれでもない。わたしは対象ではない。わたしは、それらすべての対象をみつめる「目撃者」である。わたしは、そうした「意識」そのものである。

Sights float by in nature, thoughts float by in the mind, feelings float by in the body, and I am none of those. I am not an object. I am the pure Witness of all those objects. I am Consciousness as such.


 純粋な「目撃者」に安らぐ時、あなたは特別に何かを見るわけではない。何を見てもけっこうである。むしろ、根本的な「主体」、あるいは「目撃者」として、いかなる対象とも同一化することを止めれば、あなたは広大な「自由」の感覚に気が付き始める。この自由は、あなたが見る何かではない。それは、あなたである何かである。思考を目撃している時、あなたは思考に拘束されていない。収縮した自己のかわりに、そこには広大な「開け」、「解放」がある。対象としては、あなたは拘束されている。「目撃者」として、あなたは自由なのである。

And so, as you rest in the pure Witness, you won't see anything particular—whatever you see is fine. Rather, as you rest in the radical subject or Witness, as you stop identifying with objects, you will simply begin to notice a sense of vast Freedom. This Freedom is not something you will see; it is something you are. When you are the Witness of thoughts, you are not bound by thoughts. When you are the Witness of feelings, you are not bound by feelings. In place of your contracted self there is simply a vast sense of Openness and Release. As an object, you are bound; as the Witness, you are Free.

 わたしたちは、この「自由」を見ることはない。わたしたちは、ただ、そこに安らぐだけである。この無限の安らぎの、広大な海のなかに。
 この純粋で単純な「目撃者」の状態に安らぐ。それは「見者」であり、広大な「空」、純粋な「自由」であり、そこに起こることは、起こるがままにしておく。「スピリット」はこの自由で空なる「見者」にある。時間の世界の中で行進している、限界と拘束と死だけがある有限な対象にはない。そこで、わたしたちは、そのなかですべてが起こる、この広々とした空と自由のなかに安らぐ。

We will not see this Freedom, we will rest in it. A vast ocean of infinite ease.

And so we rest in this state of the pure and simple Witness, the true Seer, which is vast Emptiness and pure Freedom, and we allow whatever is seen to arise as it wishes. Spirit is in the Free and Empty Seer, not in the limited, bound, mortal, and finite objects that parade by in the world of time. And so we rest in this vast Emptiness and Freedom, in which all things arise.
(抜粋ここまで)

いかがでしょうか?最初は、見られるものは見るものではない、をもう一度、分かりやすく表現しようと思って、書き始めたのですが、引用しているうちに、The Brilliant Clarity of Ever-Present Awareness「常に現前する意識の輝くような明晰性」の文章があまりにすばらしく、長くなってしまいました。そしてこの最後に出てきた、根本的な「主体」=「目撃者」=「見者」=「空」=「自由」=「スピリット」という、大文字ではじまる英単語の表現が印象的です。そして特にこのFreedomについては、Integral Life Practiceの序文でもケン・ウィルバーはこう書いています。

(注.最近になってIntegral Life Practice の中でウィルバーが直接に執筆したのはこの序文だけだということを、ここを読んで知りました。だからといってILPの内容が色あせることは全くありませんが、これまでの私のブログのなかで、誤解を招くような記述がありましたらご容赦下さい。)

発達の統合的な段階において、宇宙全体は意味を持ちはじめ、つじつまが合い、実際にuni-verseとして見えはじめるのです。uni-verse―「ひとつの世界(one world)」―単一の、一体化された(unified)、統合された世界、それは世界についての異なる哲学や観念を統合するだけでなく、成長や発達の実践についても同様に統合するものです。
Integral Life Practiceは、そんな統合された実践であるばかりか、あなたの成長を促し、あなたの潜在的な最大の能力―世界全体のなかでの(人間関係での、仕事の面での、スピリチュアリティにおいての、出世や経歴での、遊びでの、そして人生そのものにおいての)究極的な自由と最高の充溢―を発達させる実践なのです。ILPは―あなたの制約からの解放、断片からの解放、部分性からの解放という―世界からの最も偉大なFREEDOMについて、そして世界におけるもっとも真実のFULLNESS―部分的に見えるあなた自身のすべての側面とあなたの世界を、包含して抱擁し、継ぎ目のない、全体的で充実した人生へと導くもの―について示しています。自由と充溢―あなたの偉大な潜在性を開示し、実行しながら、人生のすべてを超えること、そして人生のすべてを含むこと―がILPの目的です。(拙訳ここまで)

まさにILPの目的でもあるこのFREEDOMだということです。

Spirit
The ultimate reality
Ever-present Subject
Seer
Witness
Consciousness
Emptiness
Openness
Freedom

これらはすべて同じものを指しています。そしてその中ですべてのものが生起しているのです。