ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

抑圧と影

今回はILPのシャドウ・モジュールから読み進めていくうちに気づいた点をいくつか取り上げたいと思います。

最初に、影とは何か?これについてILPの本文ではこのような説明がされています。

「シャドウ」という用語は、心の「暗い側」に関係しています。―私たちのそれらの側面は私たち自身からこっそり立ち去り、拒絶し、否定し、隠してきた側面で、他者に投影し、そうでなくとも自分のものと認めてこなかった側面です。心理療法の言葉としては、影は「抑圧された無意識」として言及されます。―私たちの意識からそれを押さえたり、圧力をかけたりするので「抑圧された(repressed)」であり、私たちがそれに気づいていないから「無意識(unconscious)」なのです。
 しかし私たちが影を意識していない、あるいは気づいていないという事実はそれが全く影響しないということを意味するのではありません:それは、歪んだそして不健全な意味で―あるいは典型的に「神経症(neuroses)」と呼ばれるものを通して、それ自体を表現するのです。
 
そして第一に、このシャドウは無視されやすいが実は重要な実践の分野だということです。私もはじめに3-2-1Shadow Processの1分間モジュールを読んだ後は、どうしてもあまり興味が持てず、先に他のコア・モジュールを重点的に見てきました。しかしこのシャドウ・モジュールはILPの中でコア・モジュールの最初に取り上げられているのです。そして今回、読み進める中でその意味がよく分かってきました。それは以下に太字で示したポイントが、まさにその理由です。

そのポイントの1つは、瞑想は影の解消、再統合の役には立たないということです。これは以前のブログでもインテグラル・スピリチュアリティから引用して書いたことでありますが、本文の中では次のように示されています。
スピリチュアルな伝統がおかした大きな過ちのひとつ(それはILPのシャドウ・ワークが正しくしようと努めていることですが)は、影を含めて、そして特に影のような自己の大変重要な側面のいくつかを一般に除外しているにもかかわらず、瞑想のような実践が個人全体を変容することができると主張していることです。


2つ目のポイントはフロイトの影の性質に対する深い洞察です。本文にはこうあります。

フロイトはいくつかの大きな誤りをおかしましたが、彼の誤りを暴くことが今日当たり前となったにもかかわらず、影の性質に対する彼の基本的な洞察は、不可欠なものとなっています:受け入れがたい衝動と感情は、あなたの人生がひそかに形づくられる場所である意識的な気づきから抑圧されるのです。



私も、フロイトがmourning workと呼んだ「悲哀の仕事」によって展開される小此木啓吾の「対象喪失」に目を通しましたが、自分のアイデンティティと同一化していた人の喪失に際して、その死を受け入れられず否認したままにしておくことが病的悲嘆の原因となることなど、抑圧と神経症的病理の関係が分かりやすく書かれていました。このような近代西欧の心理学の成果を統合して取り入れることができる点こそインテグラル理論の真骨頂だと改めて思いました。

3つ目のポイントは影を温存することはエネルギーを消耗することだということです。本文にこうあります。

シャドウ・ワークの最も大きな恩恵のひとつは、そうでなければ私たち内部のシャドウ・ボクシングに費やされてしまうエネルギーを完全に解放する(frees up)ことです。影を維持していくことは辛いことです!自分自身から自分の望ましくない側面をいつも変わらずに隠蔽しておくことは、たくさんのエネルギーを要します。シャドウ・ワークはそのエネルギーを解放し、それから私たちは成長と変容にそれを使うことができるのです。


これと関連して4つ目のポイントがあげられます。影を温存する限り、健全な発達は阻害される、ということです。(以下、本文より抜粋)

私たちの無意識の中で走り回る人格からの小さな反逆の破片を持っている限り、それらは「私の」統合された側面ではなく、遠ざけられた「他者」として見られます。私たちの精神の中で断片化された他者をよりルーズにしておけばおくほど、成長が困難になります。自己の側面が意識から押し出されたとき、発達の健全な段階は危うく(compromise)なるのです(発達の健全な段階に障害が起こるのです)。


そしてさらには、意外と簡単に抑圧は起こる、ということです。正直いって、私は自分に抑圧された影など関係ないだろう、自分にはそうした部分はまずないはずである、と思っていました。しかし本文の具体例であるハリーの場合を読んで、これは意外と誰でも大なり小なりあるのではないか、と思い始めました。

〈ハリーの例〉
ハリーは税金事務をしたいので、それを始めるためにオフィスへと上がってゆく。
しかし彼は、やるべきことと違うこと(ウェブサイトの閲覧など)をブラブラしている。
だからといって彼はオフィスを出て行くわけではない。
それは税金事務をしたい気持ちの方がまだ強いから。
彼は自分の持っている衝動を忘れ始めている。そしてそれを遠ざけ投影し始める。
彼のこころの背景で、誰かが彼に彼の税金事務を下処理させたいのだとハリーは考える。
彼はほとんど完全に、誰が彼に彼のいまいましい税金事務をさせたいのか、忘れる。
だんだんと怒り、すべての投影にイライラしてくる。
彼自身の投影された衝動を、押し付けることのできそうな人を求め始める。
ハリーの妻が帰宅する。彼女は何気なく尋ねる。「税金の方はどう?」ハリーは噛み付くように言う。「余計なお世話だ!」・・・その投影は完了する。
ハリーは、今や、彼ではなく彼の妻が彼にくだらない税務をさせようとしていると感じる。
彼女は外見では大変可愛らしく振舞っているが、微妙に彼女は彼にずっとプレッシャーをかけてきたのだと彼は考える。・・・


そうか!被害妄想というのはこうして生まれるのですね。なんだか思い当たるような気がします。いわれもないことを言われたり、言っていることと実際にしている行動が矛盾している場合などは、相手に、この抑圧→影の投影のメカニズムが作用しているのかもしれません。もちろん自分にもあるかもしれません。怒りや悲しみといった感情だけでなく、葛藤のある欲求についても倫理的な理由などにより、その欲求を認めたくない心理から、その欲求が自分にあることが否定され、他者に投影されて、その欲求を持っているのは自分ではなく、相手の方だと思い込んでしまうのです。ひとつ気になっていることの謎が解けた気がします。逆に自分の方は大丈夫か?ということも気になりながら・・・。


そして逆にシャドウ・モジュールの実践を行うことの効果からもその重要性が示されています。それは端的に別枠で次のように書かれています。

3-2-1 Shadow Process の潜在的な効果

・ 自己の分離した部分の再統合
・ エネルギーの境界が溶解し、エネルギーが解放される
・ 慈悲あるいは共感が生起する
・ 投影の本来の源との同一化のようなその他の洞察が生じるかもしれない
・ 創造的な戦略と行動が意識に現れる
・ 状況や人はもはやイライラさせるもの、抵抗し難いもの、打撃を与えるもの、動転させるものではなくなる



この最後の「状況(situation)は、もはや〜ではなくなる」という文に惹かれました。以前のブログでsituationは変えられないが、statesは変えられる、と書きました。その時はsubtleを使ってそうすることができると書いたのですが、今回はもう一つのSがみつかりました。3-2-1 Shadow Processというシャドウ・ワークのSです。影を他者に投影することで妄想をつくり出していたことを見抜く洞察は、まさに照見五蘊皆空!です。

余談ですが、次の文章の中にin one’s bonesという表現があり、boneは背骨・脊柱なので、何と訳すのか調べてみるとfeel in one’s bonesで「直感する、肌で感じる」と出てきました。英語では脊柱で感じることを直感するというのだと知って面白いと思いました。

さて、その文の含まれた節を紹介して今回は終わりたいと思います。このシャドウ・モジュールでは、さらにあとにgolden shadowの話などが出てきて楽しみですが、それは次回ということで。(以下拙訳)

Bringing the Light of Consciousness to the Shadow 意識の光明を影へと導く

合気道の達人たちは、私たちの知らないことを直感するので、本当に私たちに打撃を与えることができます。一方で、私たちが知っていることは、常にうまく使えます。気づきを獲得し、自己の分離した側面(この分離の1-2-3)を回復するために、自己の隔離された側面と関係を取り戻さねばなりません。言い換えるなら、否認されていたものとの関係の扉を開くのです。
 私たちは「it」(3人称の視点)として他に作られたものを取り上げることによってプロセスの「3」の部分からスタートし、それと関係を取り戻し、直接に接触することで、それに対峙します。私たちはそれから「it」として見られていたものを取り上げ、私たちの側面を、「you」(二人称の視点)としての部分的な気づきへと回復します。私たちはそれと話し、それに携わり、それと問答し、それと関係します。プロセスの「2」の部分で、私たちは、そのフックにアプローチしますが、しかしまだそれと同一化することはありません。それから、最後にプロセスの「1」部分で、「you」として部分的に照明されていただけのものを取り上げ、それになる(by being it)ことによって(一人称の視点)十分にそれを「me」あるいは「mine」として主張します。こうして私たちは3-2-1プロセス:三人称の視点から二人称の視点、そして一人称の視点へ、をもちます。「it」であったものは「you」に回復し、それは最後にまさに私の自己の側面として「me」へと回復するのです。
 私たちは、それと対峙し(face it)、それと話し合い(talk to it)、最後にそれに「なる(be)」のです。それが3-2-1プロセスの本質であり、抑圧された心理の次元との関係において深遠な自己理解を獲得するまさにシンプルな方法なのです。