ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

青い鳥の完璧なシャドウ・ワーク

あけましておめでとうございます。

年末から年始にかけて直木賞作家である重松清原作の映画とドラマを立て続けに見ました。

まず、『青い鳥』

吃音の村内先生が臨時教師でやってくる。その中学校のクラスではいじめがあって、いじめられていた野口君は自殺未遂、その後転校していった。僕をいじめたのはA,B,Cという3人ということが週刊誌に書かれる。学校では2度とこんなことが起きないように作文(反省文)をクラス全員に5枚以上書かせた。全員の教師が目を通し何度も何度も生徒に書き直させた。それから再発防止のためと称して「青い鳥」というBOXを設置。悩みがある生徒は手紙を書いてそこに入れる。各クラスの代表と生徒指導役の体育教師がそれを週1回開いて中を確認する制度。


そんな短絡的なことで危機を回避したい学校側。そこに赴任してきた村内先生は転校した野口君の机(コンビニエンスストア野口と落書きされたこの机は教室から倉庫に片付けられてしまっていた。野口君は自宅がコンビニで、不良グループの言いつけで家からお菓子などを万引きしてきていた。仲間には断れず、両親に申し訳ない気持ちから自殺を図った)をもってきて、クラスの元の位置に置いた。そして毎日、朝のHRで野口君おはようと、呼びかけた。生徒は古傷に触られるようで不快を示す。日増しに保護者からのクレームが学校に増えてくる。しかし村内先生は毎日続けた。「野口君、おはよう。」


村内先生は言った。野口君のことをなかったことにはできない、と。
 国語の授業でさりげなく取り上げられる徒然草。そして森林なしに文明の持続はありえないという話など。映画の主題との関連を連想させる。短絡的に概念化されたシニフィエだけで反省し、後悔し、仲良くしようとしてもダメだというメッセージか。思いやり、ベストフレンド・・・などシニフィアンを玩んでも子どもたちの心には響かない。

村内先生は吃音で言葉が少ない分だけ、余計に言外の大切さ、重さが一貫して作品に流れている。男の子が「心の中で嫌いになるだけでもいじめになるんですか?」という質問に体育教師が、そうだ。それがやがていじめの心につながるというナンセンスな答え。

「みんな間違っている。本気で聞いたことには本気で答えなくちゃダメだ」と村内先生は言う。臨時の期間が終わり、最後の授業で村内先生は作文をみんなに書かせる。前と同じでいいなら書かなくて自習してもいい。書きたい生徒は、1枚でもいいから書きなさいと。しだいに多くの生徒が書き始める。自分の言葉で。自分の感情を。そこに座っていない野口君に話しかけるように。(以上あらすじ)

完璧なシャドウ・ワーク・・・。

だと思いました。学校側そしてクラスのみんなが、もう触れたくない、できればなかったことにしたいという野口君のことは抑圧され影として心から分離されようとしていました。そのまま分離されていれば、その後子どもたちにさまざまな症状がいずれ出てくることになったでしょう。村内先生は、倉庫にあった野口君の机を彼が座っていた場所に置きなおすことで、影を再所有させる準備を始めました。

これは3-2-1シャドウ・プロセス3−Face Itに当たります。彼らはもう一度、野口君と直面させられた訳です。そして「野口君、おはよう」という村内先生から野口君への呼びかけ、これは2−Talk to Itのはじまりです。これがきっかけで生徒たちはもう一度、空席の野口君と心の中で話し始めました。

野口君もいじられて喜んでいたのに何故、自殺しようとしたの?
僕にも持ってきて、と言った時。あの時の野口君の目は本当に悲しそうだった。

あの時、野口君は何を言いたかったの?・・・

そしてこのプロセスは最後の作文へと続きます。1−Be Itです。最初に学校に書かされた反省文はほとんど教師たちに書き換えられてしまったのですが、今度は各自が野口君に対する本当の自分の感情、気持ちを自分の言葉で作文に書きました。そしてそこでは彼らはありありと野口君を思い出し、あの時の野口君の気持ちを自分の気持ちとして再現したのではないでしょうか。抑圧して否認し、影として葬り去ろうとしていた心情を、この作文によってもう一度自分のものとして再所有したのです。

もう一つ重松清原作のドラマを見ました。

あおげば尊し

小学高校学年のあるクラス。
その子は死体の写真や映像を見られるウェブサイトなどに関心をもつ。テリー伊藤扮する主人公の教師は、自分の父親を本人の希望により在宅で看取ることに決める。余命は3ヶ月の末期がん。子どもは斎場に頻繁に出入りし、学校へ遺族から「お宅の生徒が覗きにきていた」とクレームの電話が入る。

ある日、テリーはその子を父親の了解を得て、父の部屋に入れ、清拭などをさせようとする。しかし子どもはテリーの目を盗んで父の顔写真を撮っていたことが分かり、カメラを取り上げ、もう来るな、と告げる。その後、その子の自宅を家庭訪問し、その子の母親から、彼が5歳のとき父親を亡くし、その時のことを全く覚えていないという話を聞く。
それからしばらくして、もう一度、テリーはその子を父親の部屋に招く。父親の手を握らせる。お父さん・・・と、つぶやく男の子。男の子は忘れていた父の最期のときのことを思い出したという。怖くて手を握れなかったことも。(以上あらすじ)

このドラマでは、主役の教師が最初から、この生徒の抑圧された影とその症状としての映像への執着、を見抜いていたかどうかは定かではありません。しかし、その子の自宅を訪問し、母親は再婚して新しい父親がいること、部屋に位牌はあるが亡き父の写真がないこと、そして「あの子は最期のときのことをまったく憶えてないと言うんです」という母親の言葉から、抑圧を確信したものと考えられます。

このドラマの主題は、単によく言われてきた「命の大切さを教える教育」ではないと思います。在宅ホスピスの意義が盛り込まれていますが、主題としては、父親のことを抑圧し影として記憶から排除してしまっている生徒が、末期がんのおじいちゃんと触れ合うことで、影を再所有し、その症候が緩和されていく物語なのではないでしょうか。

ドラマ「エイジ」では、平和な家庭の、もっと些細なことからでも抑圧が生じ、それが通り魔のような衝動に結びつく様子が描かれています。

重松清作品とシャドウ・ワーク、結び付けてあと何本か観てみたいと思います。