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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

非‐時間、非‐空間としての「今、ここ」

眠る前にいつものように「存在することのシンプルな感覚」を読み返していて、「ここはちょっとマークしておかないと」と思い、さらに翌日、「そうか分かりやすいな、ここ」「原文はどう書かれているのかな」「いままで見たなかで一番完璧な『今、ここ』の説明かも・・・」などと思いました。それは「二のない一」の章にありました。

Nowhereでもある「今、ここ」ですが、混乱しやすいのは、過去、今、未来という時間の流れのなかで「今」を捉えてしまうこと、そして「ここ」についても「そこ」や「あそこ」ではない「ここ」として空間の中の一つの場所あるいは位置として、「ここ」を捉えてしまうことにあるといえます。

答えはこうだと思いました。

まず、「今、ここしかない」とは、非二元の境地において言えること、少なくても目撃者の視点でこそ言えることではないかということです。

非二元の境地では

ここ、そこ、あそこという空間の座標を「超えて」いる。すなわち「非−空間」である「無限」。

過去、今、未来という時間の流れを「超えて」いる。それは「非−時間」である「永遠」。


だから「無限」は、空間のあらゆる点に、すなわちHEREに、完全に現前しており、

そして「永遠」は、時間のあらゆる瞬間に、すなわちNOWに、完全に現前している。

それでは「二のない一(One without a Second)」の章からその部分を見てみましょう。英語はウィルバーの「The Simple Feeling of Being」(p228−p229)より、訳は松永太郎さんの「存在することのシンプルな感覚」(p335−p336)より抜粋です。

Just as, to use Eckhart’s example, your eyes can see things which are colored red only because your eyes themselves are without red color or “red-less,” so also the Absolute can embrace all space because It is itself without space or “space-less.”

エックハルトが言うように、目が赤い色を別の色をしたものから識別できるのは、眼それ自体が赤い色をもたない、いわば眼が「非―赤」だからである。同じように、絶対がすべての空間を包含できるのは、それが「非−空間」だからである。

Thus, the infinit is not a point, or a space―even a very Big Space or a dimension among other points, spaces, and dimensions; but is rather point-less, spaceless, dimensionless―not one among many but one without a second.

したがって「無限」とは、点でもなく、空間でもない。「非常に大きな空間」でもなく、ほかの点、空間、次元のなかの一つの次元なのでもない。それは多者のなかの一者なのではなく、二のない一なのである。

In just this fashion, the whole of the infinite can be present at all points of space, for being itself spaceless, it dose not contend with space and so is free utterly embrace it, just as water, being shape-less and form-less, can fill containers of all shapes and forms.

このようにして、無限の「全体」は、空間のどの特定の点をとっても、そこに完全に現前している。しかし、それ自体は「非−空間」なので、空間とは対立するものではなく、まったく自由に空間を抱擁―包含しているのだ。ちょうど、水がそれ自体、いかなる形ももたないため(非−形)、すべての形をそのなかに包み込むことができるのと同じことである。

And since the infinite is present in its entirety at ever point of space, all of the infinite is fully present right HERE. In fact, to the eye of the infinite, no such place as there exists (since, put crudely, if you go to some other place over there, you will still only find the very same infinite as here, for there isn’t a different one at each place).

無限が、空間のあらゆる点に現前しているということは、すなわち無限の全体とは、完全に「今、ここ」に現前している、ということである。実際、無限という眼にとっては、「そこ」という場所はない。なぜなら、かりに「そこ」へ行っても、そこは「ここ」としても同じ無限だからである。あらゆる点に違いがなく、どこも中心だからである。

And so also with time. The Absolute can be present in its entirety at every point of time only if IT is itself timeless. And that which is timeless is eternal, for, as Wittgenstein rightly pointed out, Eternity is “not infinite temporal duration but timeless.” That is to say, Eternity is not everlasting time but a moment without time.

時間についても、同じことが言える。絶対とは時間のすべての時点に現前している。「それ」は「非−時間」だからである。さて「非−時間」なるものは永遠なるものである。なぜならウィトゲンシュタインがいみじくも指摘しているように、「永遠とは、無限の時間的持続ではなく、非−時間」のことだからである。すなわち永遠とは長く続く時間ではなく、時間のない瞬間のことである。

Hence, being timeless, all of Eternity is wholly and completely present at every point of time―and thus, all of Eternity is already present right NOW. To the eye of Eternity, there is no then, either past or future.

したがって、それは時間がないために、永遠はすべて完全に、時間のあらゆる瞬間に現前しているのだ。したがって、それは「今、ここ」に完全に現前している。永遠という眼にとって、「その時」というものはない。過去や未来というものを、もたないのである。(引用ここまで)



いかがでしょうか?この部分を十分に吟味することで、「今、ここ」ということに対するもやもやが、晴れたような気がしました。それをまとめると、このようになります。

「今、ここ」にあるとは、過去の記憶、未来の予期を回避したり、排除したり、周縁化することではない。そうではなく、過去の記憶を振り返っている自分に気づき、未来に想いを馳せている自分に気づくという目撃者(Witness)の視点を維持することである。そしてさらには、現在、感情や欲求を感じている自分、思考の中にはまり込んでいる自分に気づき、目に見えるもの、耳に聞こえる音、そしてその背景にある静寂に気づいていることである。

不動、不変の目撃者を維持することはNOW、HEREにとどまることにほかならない。目撃者が不動なのは空間の座標を超えているから、そして目撃者が不変なのは時間の流れを超えているからである。

All of the infinite is fully present right HERE.

All of Eternity is already present right NOW.