ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

「意識的」が「習慣的」から解き放つもの

まさに、我が意を得たり、の文章がILPのp353のエネルギーと注意を解放す(Free Your Energy and Attention)に書かれていました。今年の抱負として掲げた「気づくだけ」をよりイメージしやすくなりました。

しかもこれほどの成長と変容をもたらすものであったのか、という驚きとそして実感が出てきました。
最近、正しい姿勢とMicrocosmic Orbitを意識した瞑想によって、全身にめぐるエネルギーの強さを日々体感していますが、日常生活の中で紛れてしまうのも現実です。その理由が分かったような気がしました。

あまり今まで意識してこなかった食べることや歩くこと、話すことなども意識して行うことが大変重要だとわかりました。

また不快に対して寛容になること、あるいはその寛容になる能力も極めて重要だということです。もうすでに意識すればかなりできるという自信はついてきています。

大切なのは一つ一つ意識することです。意識しないで自動的に、無意識に不快なモノやコトを避けようとしますし、それがいけないこととは思っていませんでした。いわんや、エネルギーと明晰性を高めることをや、です。
しかしここに大変な逆説が隠されていたのです。不快を避けよう、とする無意識の行為が習慣となり、しかもそれがエネルギーを浪費し、生命力を消耗させていたのです。これはシャドウのメカニズムからも明らかです。抑圧の前に起こる否認も、受け入れることが不快な自己像を認めることを拒否することから生じます。それを否認し、抑圧することにエネルギーを使っていたのだということを思い出します。
「意識的」であることが「習慣的」な日々の行いから解き放つもの、それは莫大な生命エネルギーと透徹する明晰性であるということです。

それでは、その部分を少しみてみましょう。(以下、引用拙訳)

Free Your Energy and Attention エネルギーと注意を解放する
無意識に生きているとき、私たちはたくさんのエネルギーと注意を消費する習慣的なパターンを演じています。これには、思考のパターンや、感情のパターン、注意散漫、そわそわして何かをいじっていること、そして無意識に食べること、話すことのパターンや無意識にメディアを観たり聞いたりするパターンが含まれます。生命エネルギーを導くかわりに、消耗してしまうやり方があるのです。
 ILPはだんだんと内面の筋肉を鍛え上げます。これらの筋肉を使うことによって、束縛したエネルギーと注意を解き放ち、利用することができ、個人の有効性、実践とより幸福な人生のために役立てることができます。これは自己への男性的な思いやり(masculine compassion)であり、成長と変容を選択するために必要な自己へのタフネスです。重要な実践能力は以下のようになります。

・ 不快に寛容である能力―好ましくない自己認識への不快と思考や動作の無意識のパターンを妨げる不快の両方
・ 視点を取ることへの関心―他人の視点と、私たち自身の視点を上から見渡す視点(meta-perspectives)の両方
・ 増進するエネルギーと気づきに対する意欲、それは習慣的な慰めの行為への依存性よりも強いもの
・ 無意識の習慣を中断し、解放されたエネルギーと気づきの豊かな収穫を刈り取る能力
・ 生命の膨大な力をもっともっと導くことに開いていること(openness)、もっともっと激しさ(intensity)に寛容であることに開いていること、衝動的にその生命力を放出し投げ捨てるかわりに(引用ここまで)


そして、このあとに別枠のコラムとして著者の日本の禅寺での体験が書かれています。リアルです。伝わってきます。その部分も少し抜粋して紹介しましょう。(以下、抜粋)

Don’t Throw Off the Life Force  生命力を浪費するな
・・・厳格で伝統的な5日間の禅リトリートに参加した。私たちは日本語で詠唱した。静かに座り、静かに歩き、静かにキッチンを掃除し、静かに食べた。何時間も日に日に。
 私の背中は痛み、脚は痺れ、周りでブンブン飛んでいたハエが首に止まった。私は狂いそうだった。私はなんども動いたり、そわそわしたりし、その度に師は棒で私を強く打った。
 私は、激怒と不快で、ほとんど正気を失いかけていた。こんな懲罰に参加したことが信じられなかった。私は憎み、本当に師を殺したいと思った。何回も私は考えた「もし彼が再び棒を持って私のそばで止まりさえすれば、彼の頭の上でそれを叩き折って、その破片を喉につめてやる!」
 私の周りの根気強いダラダラした禅の生徒たちは、その虐待に服従していた。私は彼らを軽蔑した。しかしどうしてか、私は逃げ出さなかった。私はそこにいた。私は座り続けた。
 ・・・しかし他にすべきことがなかったので、私がすべきであると告げられたことをしていた。ただ座り、呼吸し、くつろいでいた。現前する瞬間に目覚め、留まっていた。
 ・・・しかし私はそのすべてが開示されていくのを目撃しながら、楽しく感じ始めてもいた。敵意の真ん中にありながらも、禅堂のスパルタ式の繰り返しに、愛を感じ始めた。それはすべて、まったくばかげた、空の、完全な、透明なものであった。
 リトリートの最後の日までに、わたしはエネルギーに満たされていた。自分が3000ワットの電球になったように感じ、すべての方向を照らし出していた。そして同時に、私は完全に静止しており、静かで、明晰であった。大変深い平安を感じていたので、自分自身の狂気に動揺されることはなかった。
 1週間、エネルギーがいくつかの形態の実践によって濃縮されてきたことを、私は理解した。私がそんなに聡明かつ明晰であった理由は、いつものように、話すこと、食べること、そわそわすることによって、エネルギーを絶えず浪費する、ということをしなかったからだ。私のいつもの人生のやり方は、風の吹く丘の上にある炎のようであったが、一方、厳格で伝統的な決まり(routines)は、堅いドアのついたレンガのオーブンのようだった。
 それは非常に大きな贈り物であり、ターニングポイントであった。そのあとずっと、その理解を実践に持ち込んでから、それは、私のコミットメント、明晰性、エネルギーを徐々に引き上げる鍵となっている。
 それは、私が不快と激しさを経験する方法を変化させた。それらは、もはや私を狂気に駆り立てることをしない。私はそれらを、私の実践に優位性を与える価値ある機会(golden opportunity)として認識している。(抜粋ここまで)



私たち日本人にとっては何とも複雑な想いです。これはILPの共著者であるTerry PattenかAdam B. Leonard あるいはMarco Morelliのいずれかの体験です。それにしても素晴らしい体験ですね。
「厳格で伝統的なroutinesは、堅いドアのついたレンガのオーブンのようだった」という表現も印象的です。まさに私も丘の上のろうそくのような炎であって、風が吹くたびにかき消されていたのです。
「無意識に食べること、話すことのパターンや無意識にメディアを観たり聞いたりするパターン」に気づき、意識的に「静かに座り、静かに歩き、静かにキッチンを掃除し、静かに食べる」という状態のもち方を学ばねばなりません。それができた時、「意識的」が「習慣的」から解き放つ大きなエネルギーを実感できるのでしょう。日常の中でも。

そしてこれを読んでいて気づきました。ボディモジュールに重要なものを残していたことに・・・。それはIntegral Nutritionです。このAQALは、左上Eat Mindfully、左下 Eat Meaningfully、右上 Eat Optimal Foods、右下 Eat Sustainablyです。これは食事をする理由を、心理学的に、文化的に、生物学的に、社会的に、四つの側面から捉えたものです。 次回はこの食事について考えてみたいと思います。