ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

不動、不変の視点、龍とわたし

「わたくし、すなわちNobody」とは2007年に46歳の若さで、がんで亡くなった池田晶子さんの著作をマネジメントしているNPO法人の団体名称です。すぐれた文芸作品に対して「わたくし、すなわちNobody賞」を授賞することもしています。

知っているNPO法人の中でもっとも素敵な名称のひとつだと思いました。

そして「私とは何か さて死んだのは、誰なのか」という本のタイトルにグッと惹かれて購入しざっと目を通しました。

まず、最後のページのこんな言葉が目に飛び込んできました。

自分というものが「ない」としることによってこそ、人は個性的になる。こういうことしかできない自分を知る。(池田晶子「知ることより考えること」)



この「わたくし、すなわちNobody」には二つの意味があると思いました。ひとつは、私は他の誰でもない唯一無二のわたし、というユニークセルフの意味であり、もうひとつはまさに誰でもない(Nobody)、そしてなんでもない無であるわたし(Nothingness)、一切のものと同一化しない「空性」としてのわたし、です。

いくつかこの「わたし」に関連した言葉をこの本の中から拾ってみると・・・。

右のような〈私〉を「社会的な〈私〉」と私は呼びたい。「私とは何か」と問うて、性格や帰属や来歴や、せいぜいDNAが答えになり得るような〈私〉だ。…
対して、性格や帰属や来歴や、その他一切の属性とは無関係の〈私〉、したがって喪失のしようもなく常にここに在る〈私〉、これを「形而上的な〈私〉」と私は呼んでいる。

正直に言うと私は、普遍と現象との二重の意識によって、一瞬一瞬を垂直に直覚しているのである。
 たとえば、自分にのみ向き合い、そこに生起し、推移し、消えていく者どもを観察してすごす一日、私は、それらの一切を、そういう垂直方向に伸びる透明なスキーマのうちにありありと俯瞰している瞬間の持続に気づくことがある。そういうときは必ず、静かに強い「納得の感じ」が、その認識の刻々を貫き、満たしている。ふと我に還り、見た、と思う。まぎれもなく見た、と思う。


いいですね。

これはそれこそまぎれもなくウィルバーのいう目撃者(Witness)です。普遍と現象とは空と色。「納得の感じ」とは「微細」から入っていく充溢の感覚でしょう。俯瞰しているため空間の特定の座標をもたず、偏在している、あるいは空間を超えています。すべてのものはAwarenessの中で生起し、しばらくとどまり、過ぎ去っていきます。

そして次の文章には私がこの本の中で一番気に入ったところが表現されています。

ヘラクレイトスが同時にこうも言っているとき、どうするか。「私にではなくて、ロゴスに聞いて、万物が一つであることを認めるのが、智というものだ」
 私を考え、私を突き抜け、普遍に至る、これが形而上学(メタフィジカ)。もはや「私」はNobody、そして、Everywhere。帰属と肉体は世を忍ぶ仮の姿、人生の日々は、相貌を変えぬままにその意味合いを変えるだろう。



万物が一つであるとは、道元の「自己を忘るゝといふは、万法に証せらるゝなり(To forget the self is to be one with all things.)」です。私を考え、私を突き抜け、普遍に至る…最初の私は小さな自己、彼女の言葉でいうと属性をもつ社会的自己、それをブレイクスルーして、至った普遍とは何者とも同一化しない大きな自己、色ではない空としての自己であるから普遍。そして私は誰でもなく、だけどどこにでも偏在する。帰属と肉体は私の無常としての移ろいゆく側面。ビートルズのHere There and Everywhere。

それなら〈私〉とは何か。…普通に人は、自分をその名前や履歴、性格や肉体などと同一とみなし、それらのいわば総元締めとしての脳と同一、と思うわけだが、右に延べた通り、明らかに脳は〈私〉ではないのだから、そんなもろもろが〈私〉であるわけないのである。〈私〉は脳ではなく、したがって〈私〉とは何でもない、という本然の事実に、人々が残らず気づいた社会を想像するのは、少なからず愉快である。


〈私〉は脳ではなく、とありますが、インテグラル理論では脳は私の外面のひとつの現れです。四象限の右上象限、Itで表現される側面です。

さらには次のような非二元(Nondual)の描写もありました。

じじつ、見えた。確かに、見た。一切に広がり、一切を浸し、一切を射抜きつつどこまでも自己である。誰でもないことによってこそ誰でもあり得る。意識のこの透明な運動性を自身と把握することによって、それ自体の何であるかその一点を除けば、全意識、全宇宙は、我が掌中にあった。



いかがでしょうか。ウィルバーは目撃者は半分の道であるといいます。「なぜ半分の道なのか。なぜなら、あなたがこの意識の無限の安らぎにとどまり、すべて自然に起こることに気づいている時、やがて最後の自由と充満性への突破が起こるからである。目撃者それ自体が消えてしまう」と非二元のワンテイストを表現しています。

池田晶子さんが生前にウィルバーの著作インテグラル理論のことを知っていたなら、一体どう感じたのでしょうか?少なくとも彼女が表現したいことをもっと体系的に伝えるのに役立っていたでしょう。心理学者や宗教学者との共通言語をもつことにつながって行ったかもしれません。

いま、最近出版されたa guide to integral psychotherapyというインテグラル理論の本を見ています。この本の中で自己同一性の発達段階(Stage of Identity Development)が示されています。(前回はCook-Greuterのそれを見ました)

簡単にいうと「私とは誰であるか(Who am I ?)」という自分なりの定義が成長、深化して移り変わっていくということです。(以下の日本語部分は拙訳)

1	Sensorimotor-undifferentiated 感覚運動的ー未分化
 1/2	Emotional-relational 情動ー関係的
2	Magical-impulsive 呪術ー衝動的
 2/3	Opportunistic-self‐protective 日和見―自己防衛的
3	Mythic-conformist 神話ー体制順応的
 3/4	Conventional-interpersonal 慣習的ー人間関係
4	Rational-self‐authoring 合理的‐自己著述
 4/5	Relativistic-sensitive 相対的ー感受
5	integrated-multiperspectival 統合ー多視点的
 5/6	Ego‐aware-paradoxical 自我意識ー逆説的
6	Absorptive-witnessing 没入的ー目撃
	
Nonstage	Nondual identification 非二元的同一性




目撃者(Witness)は、第6のStage(段階)に確認されます。非二元(Nondual)は段階を超えたところにあります。これは最高のStageであるとともにすべてのStageの基盤、背景であることを示しています。

またこの目撃者と非二元はState(状態)でもあります。ウィルバーの「インテグラル・スピリチュアリティ」p111にこう書かれています。

こうして私たちは、自然な、かつまた瞑想的な、5つの主要な意識の状態をさすことができるようになった。すなわち、粗大、微細、元因、目撃者、非二元という5つの意識の状態である。



そして、以下のように説明されています。

目撃者の状態
これは他のすべての状態を目撃する能力である。たとえば覚醒状態にあっても、明晰夢の状態でも、目撃者はそれを目撃する。

常に現前する非二元的意識
これは状態というよりは、他のすべての状態に対して常に現前する基底である。そして、そのようなものとして経験される。



今回は池田晶子さんの「わたくし、すなわちNobody」との関係で、目撃者(Witness)を見てきました。

Witnessとしてのわたしとは「不動、不変の視点としてのわたし」です。

究極の主体であるわたし、とは、空間的な座標に入らない、すなわち特定の位置をもたない、それゆえ不動であるわたし、空間を超えた不動の視点としてのわたし

そしてまた、時間の流れに入らない、特定の過去でもなく、現在でもなく、未来でもない、したがって変化の対象とならない、無常を超えた不変の視点としてのわたし

ということができます。

リサ・ジェラルドの歌とともに始まる「龍馬伝」。そのオープニングの映像で、「龍」は時間の流れに入らない、そして空間の座標におさまらない、そんな時空を超えた存在のように見えます。

「不動、不変の視点としてのわたし」、目撃者(Witness)とはそんな「龍」のような「わたし」なのではないでしょうか。