ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

Absorptive−Witnessingその2、主客転倒せよ!

前回の続きです。
アイデンティティの最も高いStageであるAbsorptive−Witnessing段階の特徴の二つ目は、「目撃認知へのアクセスの増加」(Increased Access to Witnessing Cognition)です。P153のこの節を読み、これと関連したP77の「認知の発達ライン:ポスト形式操作およびトランスパーソナルな認知」にも目を通し、理解を深めるために、「存在することのシンプルな感覚」の第1章「目撃者」を再読しました。

ほんとうに素晴らしい、ウィルバー哲学の真髄のひとつは間違いなくここにあります。

いくつかの発見がありました。

まず、認知のラインについてですが、Witnessingが認知のラインの最も高い段階に位置付けられていることです。
ピアジェの形式操作段階を超える段階があり、それは、弁証法的認知(dialectical)と目撃認知(witnessing)の段階です。以下P77から弁証法的認知に関する部分を抜粋します。(抜粋拙訳)

CommonsとRichards(2002)は、ポスト形式的認知の成長の4つの異なる段階を提案しました。これらの段階の各々の詳細はここの私たちの目的にとって特に重要ではなく、彼らが記述しようとした中心的な能力こそ重要なのです。これらのポスト形式的な思考のモードは、意見の多くの視点を認識し、それらの間の相互関連性に気づき、それらをかみ合わせて効果的に調整する能力のかなめであると理解されます。しばしばこれは弁証法的に考える能力と呼ばれます。―それは統合的なポジションを創り出す能力であり、もう一方と論理的には矛盾するように見える見解を心の中で同時に抱くことのできる能力です。(拙訳ここまで)


そして、引き続き「目撃認知」について書かれた部分を抜粋します。(以下拙訳)

認知的発達モデルの鍵となるひとつの仮説は、それらが包含的〔入れ子状である〕ということです。―認知的発達の各々の新しい段階は、以前の認知段階の能力を保持し調整しながら新しい能力を加えていきます。このプロセスを理解するもう一つの方法は、以前の認知の順位から差異化するために、一歩離れて(step back)、これらの能力を見通すことができねばならないということです。言わば、座ることのできる「より高い席」が必要だということです。―たとえば形式操作的に考えるためには、具体操作的思考を見通し、あるいはそれについて〔それを対象として〕考えることができなければなりません。
 トランスパーソナルな発達においてどんなようなことが起こるかといえば、この視点をとる能力が、より合理的な形式を要するのだ、ということです。そこでは心の基本的自動的な操作に「十分に気づいている」「目撃している」あるいは「目覚めている」ことができなければなりません。複雑で弁証法的な認知でさえ見通すことができます。―心が多面的な見解をどのように構築し、時々刻々と反応しているかに気づくのです。トランスパーソナルな認知では、一つの全体として、意識的な心の機能から一歩離れて、それを見ることができます。(拙訳ここまで)


発見の2つ目は、認知が自己システム、アイデンティティのStageに影響するという点です。

P79に「自己システム〔あるいはアイデンティティ〕の発達は『内面と自己概念に対して適用された認知ラインの発達』として定義されます」と書かれています。すなわち、自己を空性として見るアイデンティティの段階は、弁証法的な認知と目撃者的な認知のあり方を自己概念に対して適用した結果であるということです。

3つ目は、WitnessingがAbsorptiveを可能にするという構造、なのだということです。

以下、「目撃認知へのアクセスの増加」の節の引用拙訳です。

これらの神秘体験がこの段階で頻発に起こるようになるという事実にくわえて、人の心理学的構造もまた、スピリチュアルな状態の経験それ自体の性質と、もっと適合します。人はこれを一時的ではなく一貫した心の状態として理解します。体験の反復を通じて安定した心の特徴になるのです。右上(UR)の言葉では、これらの状態をサポートする神経経路および連結が時とともに強くなったとある人はいうかもしれません。それらは脳の全般的な機能に対する統合性だけでなく、人に対してのアクセスできる能力を高めるのです。
左上(UL)の言葉では、私たちは、この段階にいる個人が何故そんなに簡単に変性状態に出入りできるのかという理由について、内面の経験を目撃している認知がより十分に応用された結果であると思索することができます。すでに議論したように、目撃認知によって、偏らず、冷静に、心を見、経験を見ることができます。―自分がスクリーンの中で配役を演じる映画のように、人生は経験されるのです。この目撃者のスタンスでより多くの時間を過ごすにつれて、エゴに合体されていたもの―願望、反応、自伝的記憶―が、世界でさまざまに機能するために必ずしも必要でないものとして、剥がれ落ちます。目撃する自己、スピリチュアルな自己はリアルで根本的なものとして理解され、エゴとしての自己は幻想として経験されます。彼または彼女は、積極的なエゴへの関与を捨てはじめるので、エゴは継ぎ目のない存在ではなく、継続的に変化する、一貫性のない記憶と経験、概念と文化的観念、そして連想のマッシュポテトのようなものに見えはじめます。エゴにアクティブ投資するという特徴は影をひそめ、弱まります。人は、邪魔をするそうした思考を目撃することができるので、トランスパーソナルな経験が、抵抗なく容易に気づきの意識へとあふれ出るのです。
 もちろん、変性状態はしばしば発達の早い段階にある人々にもエゴがつかの間のもので一時的で実体のないものであるという気づきを与えます。しかしそのような洞察が十分な印象をもって心に留められることはほとんどありません。性格の強さは凄すぎて、再び幅をきかせるのです。性格の硬直性は―とてもリラックスした慣習的な人でさえもトランスパーソナルな視点からみると「柔軟性のない」態度をとります―変性状態のエネルギーが消失し、すばやく失速するのを余儀なくします。川の前方におかれたダムのように。しかしながらAbsorptive−Witnessing段階では、それを冷静に目撃する能力のおかげで、心は全く浸透しやすいのです。個人はそんな状態にもっと容易に出入りでき、彼あるいは彼女のアイデンティティは本来まずもってスピリチュアルなのだという感じを強めます。彼あるいは彼女はEgo-aware―paradoxicalな人が気づいてはいるが部分的にしか同一化できていない「区別のない現象論的連続体」と十分な同一化をはたすことになります。(拙訳ここまで)



さらに「存在することのシンプルな感覚」の第1章「目撃者」を再読し、自分なりにまとめると…。

Witnessing認知の特徴は、徹底的に「見ることのできる対象は客体であると認識するプロセス」を続けることにあります。

そしてこの認識において物事はありのままに見えるのだといいます。

そして問います。では、純粋な主体である「あなた」とは何か?

ネティ、ネティです。

そして内外のすべてのものが客体であることを見たのちに、その純粋な主体は、「開け」(Openness)であることが認識されるといいます。

また、そうした客体や小さな主体やらが止滅する状態が、元因(causal)です。

そしてなんの努力もなしに、その「開け」にくつろぐのだといいます。それがSimple Feeling of Beingです。

そこにはFREEDOM(自由)とFULLNESS(充溢)があります。

(この点が頭だけで理解しようとしても分からないところ。「私」からいろいろなものが脱落していって、何でもない「空性」となった時にそれが何故いいのか?救いになるのかが実践と体験のない人には分からない、その自由と充溢の片鱗を実際に感じてみないことには…)

空、ブラフマン、タオ、・・・言葉の限界を知りながら様々な表現がされますが、私がいま一番気に入っているのは、「広大な開け」(Spacious openness)です。

気づきました。「私」が自分であると思っている自伝的記憶、属性…は見ることのできる客体であることを知れ!それは自分が引いた境界の内側にあるだけだということを知れ!「主」と思っていたものは、実は「客」であった!

私はどちら側に立っているのか?

私が流氷の上に立っているなら、虚無の海に落ちるのは怖かろう。

私が水なら、海に落ちようもなく、浮かんでいる収縮した氷を眺めていればよい。

「主」と思っていたものは、実は「客」であった。では「主」とは…(そうか、キリスト?笑)

主客を転倒せよ!