ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

「ネットでeクラス」が育む「私たち(We)」というスペース

毎日新聞のネット版である毎日JPに毎日教育eタウンというコーナーがあり、月に一回、小児がん経験者の学習コミュニティのことを投稿しています。本日更新されましたので下記にリンクしました。
http://www.v-schoolcity.net/ht/etown/voice_staff.html
また、同じ内容をこちらのブログでも紹介させていただきます。(以下転載)

「ネットでeクラスは何を育んでいるのだろう?という自らの問いかけに対し、以前このコーナーで「心の知能指数(EQ)」を育んでいるのだという考えを紹介しました。今回は「私たち(We)」という空間(スペース)を育んでいるのだ、という考えについて述べてみたいと思います。

 私たちは、誰しも大なり小なり、「私たち」という空間をもっています。「私たち」とつぶやいてみてください。その時に心に浮かぶ人の顔は誰の顔でしょう。家族の顔が浮かぶ人もいるでしょう。その人にとってはまず家族が「私たち」だということです。部活のメンバーが思い浮かぶ人もいるかもしれません。「私たちは優勝を目指している。」「僕たちは負けない。」「私たちはすばらしい仲間だ。」お父さんなら会社の部下を思い浮かべるかもしれないですね。「私たちはあきらめない。」「私たちは最後までがんばる。」などなど。

 もっと大きな集団の「私たち」もあります。オリンピックなどでは、日本のチームを「私たち」というように同一化して応援したりします。都道府県対抗の駅伝では自分の住んでいる県を無意識に「私たち」と感じている人もいるでしょう。

 そして私たちは、この「私たち」に影響を与えるとともに、「私たち」から影響を受けています。自分が「私たち」と感じている集団のメンバー全員に反対されるようなことはしにくいでしょう。集団の価値観が個人の言動に影響を与えているのです。「人は一人では生きられない」といわれますが、私たちは「私たち」の中でこそ、人間的に成長し、人格的にも成熟するのです。

 人はいくつもの「私たち」をもっています。関係が浅いかそれとも親密か、人数が多いか少ないかは別として、いくつもの集団に帰属しているということです。これは「縁」と言い換えてもいいかもしれません。地縁、血縁といいますが、これは近隣地域の「私たち」であり、親戚一同の「私たち」ということです。NHK無縁社会」という特集番組がありました。これは地縁血縁のつながりを何らかの理由で失った人たち、なおかつ仕事もないか、仕事があってもその職場で「私たち」と呼べる関係を築けていない人たち・・・、すなわち「誰とも」、「どこにも」、「私たち」といえる縁をもてない人が増えていく社会のことを指しています。

「私たち」(We)のない社会 - ウィルバー哲学に思う


 「ネットでeクラス」は、同じ病気の経験者であるサバイバーがネット上で顔を合わせて、ともに笑い、ともに考え、そして同じ時間を積み重ねることで、「私たち」を育んできたといえます。そのような場があることがひとつの拠り所となっているのです。「みんな頑張っているから自分も…」、そう思える「私たち」というスペースがあることは、とても素敵なことなのではないでしょうか。