ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

「悪い無限」を空なる心の自由へと反転する、それは「無形の位」

David LoyのLack and Transcendenceの中には興味深いことがいくつも書かれています。

P94から、私が朱線を引いたところを以下にいくつか抜粋してみます。(以下引用拙訳)〔 〕は私の補記です。

私たちの最も問題となる二元性は、死に対する生ではなく、自己vs非自己だということです。心理学用語でいうと、私たちの原初の抑圧は、死の怖れ―未来に投影することによって心配なこと(死の怖れ)には、ずっと距離を置いています―の否認ではなく、まさに今、疑わしい無(nothingness)を抑圧している自己の感覚です〔抑圧特有のirritateな落ち着かない感覚であると思われる〕。私たちはこの最も慣れ親しんだ脅威に、自己の感覚として頻繁に立ち現れる欠乏の感覚として気づくようになると、私はいってきました。

Yung Chiaがいうように「存在は存在ではない。非存在は非存在ではない。この法則を見逃すなら、あなたは1000マイル離れてしまうだろう」なのです。

もし、それが私の恐れる無(no-thing-ness)であるなら(言いかえれば、自律的で自己実存というよりむしろ、「私」が構築物〔虚構〕であるという抑圧された直観)、その恐れを解決する最善の方法は、何にもならないこと(to become nothing)です。

自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。(be actualized by myriad things)

禅 ZEN - ウィルバー哲学に思う


自分自身を「忘れる」こととは、インドラ網の宝石である私たちが、どのように分離の感覚を捨て、私たちが網であることを悟るのか、ということです。瞑想とは自己の感覚を忘れることを学ぶことによって死に方を学ぶのです。それは私が瞑想の修養に没頭している時に起こります。

意識の常なる自動化された反射活動が止むとき仏教における悟り〔見性〕が生じます。それは明け渡し(letting-go)として、虚空(void)への下落として、存在の消滅として体験されます。「人は心を忘れることを恐れ、何も持たずに虚空に墜落することを恐れます。彼らはその虚空が本当の虚空ではなく、リアルなダルマの王国であることを知らないのです」

このプロセスは私たちが無として恐れるものが、本当の無ではないことを意味します。それは、絞めた手綱を失うことを心配する自己感覚の視点のためなのです。仏教によると、自分自身を明け渡すこと、そして無(no-thing-ness)と同化することは、何か他のものへと導きます。意識が自分の尾を捕まえようとするのをやめるとき、私は無であり、そして私はすべてであることを発見します。―あるいはもっと正確には、私はどんなものにでもなれる(I can be anything)ということです。そのとき、もはや私がものごとを通じてリアルになろうと奮闘しなくなったとき、それらによって「実現される」(actualized〔証せられる〕)自分を見出すのだ、と道元はいいます。

それは、非二元として経験されます。これは存在(being)でしょうか?それとも無(nothingness)でしょうか?無根拠(groundlessness)でしょうか?根拠がある(groundedness)のでしょうか?…もし、インドラ網のそれぞれの宝石が、他のすべての宝石によって互いを条件づけたり条件づけられたりするなら、完全に根拠がないということは、それはまた完全に根拠を得るのだということが、特定のいくつかの関係ではなく、相互依存の関係の網目の全体において言えるのです。

わたし自身を根付かせようと奮闘することの究極の皮肉は、それは成功しない、なぜなら私はすでに全体の中に(in the totality)根付いているからというものです。あるいは、もっといえば、全体として(as the totality)です。仏教は、私とは根拠がなく、世界から分離されていると欺瞞的に感じる限りにおいて、根拠をもちえないことを暗示します。しかしながら、私は世界以外の何物でもないという限り、常に十分に根拠のある存在であったのです。

この融合によって、私の核心における無(no-thing)は、欠乏の感覚から、掻き乱されるものなど何もないので動揺しない平静(静穏)へと変容します。「存在も非存在も二度と存在しないとき、他のどんな可能性もないことによって、支援なしにそれは平穏となる」のです。

欠乏の感覚が地に足をつける(ground itself)ことを求める限り、私の核心の割れ目(hole)は存在のもろい感覚を脅かす欠乏として経験されます。手放し拠り所を放下することは、割れ目こそ地に足をつけさせてくれるもの(what grounds me)だと悟ることです:なぜならそれは相互依存関係の全体性の中に私が根付かされること(to be grounded)を許すからです。

ヘーゲルのエンチクロぺディー論理の難解なセクションにおいて、「悪い無限(独)」を分析しました。文字通り、「無限の誤り」あるいは「悪い無限」です。彼は何かの特徴を特異化することとして、決定(or判断;determination)を定義することからはじめます。それは他のものからそれを識別する性質です。そのような決定とは、各々の性質を特異化することは、常に他のものとの関係を伴うのだ、ということを意味します:もしあるバラが白いからユニークなのであれば、その独自性は他のすべてのバラが赤、黄色などいろいろであることに依るものです。私たちは物事を互いから区別されたものとして理解する傾向があります。しかしそんな風に、互いの存在はそれが識別される他の存在に依存しているのです。非常にそうなので、それ自体の決定の条件として、「それ自体の内部に」これら他のものを抱くといわれるのかもしれません。もちろんこれは龍樹が、物事が空(シューニア)である(そしてそれはHua-yenがインドラ網の比喩を使ったポイントなのですが)ことを証明するために使う言説です。そのような解釈は、すべての明らかに他と区別できる質の本性が、他のものが作用する何かとして変化することを意味します。ヘーゲルは、これを、そのもの自体から各々のものを疎外する(遠ざける)ので、疎外(alienation)と呼びます:もしそれが他のことのすべての影響の総合計であるなら、それは、本当は自己決定的なのではない〔=自性がない〕のです。これは、物事がそんな決定からそれ自体を解放することを欲する限りにおいて、悪い無限(bad infinite)です。

悪い無限に対する彼〔ヘーゲル〕の解決策は、仏教徒の実践が導く視点と同じ反転(reversal)を含んでいます。

何かに執着することによってそれ自体のgroundを求める意識は、終わりのない不満足へと運命づけられています。すべての現象の非恒久性は、そんな止まり木(perch)などどこにも発見できないことを意味しているからです。しかしそんな止まり木を私たちに求めさせるのは私たちの欠乏なので、欠乏の終わりは異なった視点(perspective)を与えます。ヘーゲルにとっても、真実の無限(悪いの反対である)とは、視点の変化だけを要求するものです。解決とは問題を経験する異なったやり方だということです

常にまだいくつかの有限決定(finite determination)を有する「自由範囲の変化(free-ranging variable)」は、どんな特定のものにも縛られていません。悪い欠乏の無限は、特に何かであることを必要としない、良い変化の無限へと変容するのです。ヘーゲル哲学の言葉では、これは、他による決定(other-determination)の疎外を、存在それ自体の自由へと変容する。仏教徒の言葉でこれは、常にこだわろうとする反射的な自己感覚の疎外を、空なる心の自由へと変容するとなります。それは何かになる必要などないので、どんなものにでもなることができるのです。(“empty”mind that can become anything because it does not need become something)
(引用拙訳ここまで)

そしてここまで読んでいたところで、ふっと、清水博先生が「生命知としての場の論理」(中公新書)のなかで書いておられる柳生新陰流の「無形の位」と再び遭遇しました。場所中心的自己 - ウィルバー哲学に思う

何と読むのか分からなかったのでネットで調べるとどうも「むぎょうのくらい」と読むようです。それはともかく、これだ!と思いました。
「無形の位」のことはこの本のP167柳生新陰流第21世宗家の柳生延春氏との対談でこう語られています。(以下引用)

柳生:まず、どんな截相(きりあい)においても「無形の位」が基準で、実際の技としての働きが「転」(まろばし)と考えるんですよ。つまり、技の前に「無形の位」がないと駄目です。自分がそういう状態でないと、敵に対したとき、勝つべくして勝つことはできない。心身共に「無形の位」で対するから、敵の動きを見て、「転」で勝てるわけです。

清水:無限定的な状態からの創出ですね。

柳生:まずは、「無形の位」でいなければならない、ということです。相手に対して「無形の位」にあるということは、先入観念をもたないということです。先入観念をもちますと、自分勝手で独善的になってしまいますから、相手のことを正確に捉えられないということになりますので、「無形の位」がどうしても必要になります。

そして221Pに風、水、心、意、空という柳生新陰流の極意に関連して以下のように書かれています。

風は敵に対する懸口(かかりくち)のことですが、それが風のようにあれということです。…自然の風の動きは音もなく近づき、芸術的ともいえるように、そろそろとはじまり緩急自在に吹き、涼味を肌に残して去っていきます。その型にはまらない自然そのものの風の動きは、その中に無限の動きを包摂しているために予測できません。これこそが利厳が達した無形の位から生まれる自然そのものの懸口なのです。

本来無形の水が器に応じて自由自在に形を変えていけるように、現場の状況に応じてとらわれることなく自由自在に、筋をつくっていけるように、柔軟で創造的であれということです。(引用ここまで)

ヘーゲルのいう悪い無限、他によってしか在ることのできない不確かさ、これが欠乏の感覚をもたらしているのですが、それを見抜き、手放し、重心を網目側に移すことで、それは、むしろリアルで確かな感覚を伴った、こだわりのない自在な自由、不動の自由へと変容させることができるということです。そしてそれを体現したのが柳生新陰流の無形の位なのではないでしょうか。

「悪い無限」を空なる心の自由へと反転する、それは「無形の位」

何度も書き直し、今回はこんな表題とさせていただきました。