ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

色即是空と空即是色の完璧な解説

これは色即是空、空即是色の完璧な解説だと思われる部分を「存在することのシンプルな感覚」P138〜139に発見しました。(「進化の構造2」P14〜16に対応しています。)といいますか今までにも何回か目を通したことのある文章でしたが、あらためてここは本当に分かりやすいと感じましたので取り上げさせていただきます。

以下、その部分からの抜粋です。(以下引用、英語の( )部分は私が追記したものです)

こうしてプラトンの全体的な立場を、いかなる非二元的な伝統にもすべてに当てはめることができる言葉で要約できる。多者(Many)を後にし、一者(One)を見つけよ。一者を見つけたなら、多者を一者として抱擁せよ。

もっと簡単に言うこともできる。一者に帰還せよ、多者を抱擁せよ。・・・

確かに、非二元的な伝統―上昇の道と下降の道を結びつけ、統合する伝統―が現れるところではどこでも、洋の東西を問わずに、あたかも数学的な正確さをもったようにして同じテーマが現れる。タントラから禅まで、新プラトンからスーフィまで、(ヒンズー教の)バクティ派から華厳まで、何千もの異なった説き方、何百もの異なった文脈において、本質的には同じ言葉が非二元的な魂から鳴り響く。一者へ帰還し、一者を抱擁する多者は善である。そしてそれは「智恵(wisdom)」と呼ばれる。多者へ帰還し、多者を抱擁する一者は善性である。そしてそれは「慈悲(compassion)」と呼ばれる。

智恵は、多者の背後にあるのが一者だと知る。智恵は、変転する外見とうつろいゆく形態を通して万物の基底のない「基底」(groundless Ground)を見る。智恵は影を通して、時間と形のない「光」を見る。タントラでは、それは「存在」が自ら放つ光明である。短く言えば、智恵は多者は一者であると知る。あるいは禅で言うように智恵あるいは般若は、色(形態)はそのまま空であることを見る。現象の世界における「確固とした」「実体」は、実際はうつろいやすく、無常で、実質を欠いている(insubstantial)のである。それは金剛経にも言うように「泡、夢、影にも似たもの」である。智恵は「この世界は幻影であり、ブラフマンのみがリアルである」ことを知る。

しかし「智恵」が、多者こそ一者であることを知るならば、「慈悲」は一者が多者であることを知る。すなわち一者は、すべての、そしてそれぞれの存在に「平等(equally)」に現れているのであり、その「慈悲」と思いやり(care)においてまったく平等に扱われる。それは何か上から下への見下したような意味ではなく(not in any condescending fashion)、むしろそれぞれの存在はまったくあるがままで(exactly as it is)、「スピリット」の完全な顕現だからである。かくして「慈悲」は一者とは多者にほかならないことを知る。あるいは禅で言うように、「慈悲」あるいはカルナ(哀れみ、慈悲)は、空とは色(形態)にほかならないことを知る。・・・慈悲は「ブラフマンが世界である」と知る。すなわちプラトンが述べたように、全世界は「眼に見える、感じることのできる神」であることを見るのである。

さらに、西洋においても東洋においても説かれるのは、上昇と下降の道の「統合」とは、「智恵」(多者とは一者であることを知る)と「慈悲」(一者とは多者であることを知る)の結合である、ということである。わたしたちが一者に対して抱く愛は、多者に対しても同じようにさしのべられる。なぜならその二つは、究極的には同じものだからであり、かくして愛は知覚のあらゆる瞬間において智恵と慈悲とを結びつけているのである。(引用ここまで)

般若心経については柳澤桂子さんの「生きて死ぬ智慧」はじめ、玄侑宗久さんの「現代語訳般若心経」などを読んで理解を深めてきたつもりでした。しかし一方で空を「自性がないこと」としてだけ解釈してしまうと、色即是空とは、形あるものは無常で移りゆくのだという深みのない理解となるばかりか、空即是色はどう考えればよいか、と頭で理解することの限界も感じていました。そして少なくとも色即是空を認識しうるレベルと、空即是色を認識するレベルは違うのではないか?とも思っていました。

しかし、David Loyの著書にある「悪い無限」と「良い無限」がヒントになりました。

「悪い無限」を空なる心の自由へと反転する、それは「無形の位」 - ウィルバー哲学に思う

あるいは文脈的に「悪い無限」として用いられる空と「良い無限」として用いられる空があることに留意して解釈すれば、とてもよく理解できると分かったのです。

空を単に「自性がないこと」とだけ解釈してしまうと、それはポストモダニズムの「悪い無限」に陥ります。実存主義の直面する壁です。あらゆるホロンはIOU(借用証書)を発行しているのです。相互依存的連携生起を知的に理解しただけでは駄目です。それではまだグリーンです。グリーンを超えるには「悪い無限」を「良い無限」に変容させていくことが必要です。

そして「悪い無限」を「良い無限」に変容できたなら、「多者」は「一者」に帰還します。それは「二のない一」としての色即是空です。IOUの清算される空性なのです。言葉を変えると、客体は主体である、という統合のプロセスです。

そして客体が主体に統合されて主客合一されると、一者は多者を抱擁します。アガペであり慈悲です。道元の「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷し(すずし)かりけり」で表現される本来面目としての空即是色です。主体イコール客体となります。

「多者の背後にあるのが一者」という表現の「背後」というのがいいですね。玄侑宗久さんの著書にも「色の背後に空を感じる」という節があります。

「影を通して、時間と形のない光を見る」もいいです。この時の「影」は色であり、「光」は時間と空間を超えた空です。そしてそれこそがリアルなブラフマンであるということです。

groundless Groundは基底のない「基底」と訳されています。一者=基底=光=空です。気がつきました!基底価値とはあらゆる多者がもつ一者としての価値という意味だったのです。

道徳的認識力は勇気をもって高める能力(統合的な倫理2) - ウィルバー哲学に思う


縁起の相互依存性をもって空の解釈としていてはいけません。龍樹のいうように相互依存性は非現実の特徴なのです。それはまだ悪い無限です。それはグリーンの解釈です。グリーンを超える空の解釈は、そこに安らげる良い無限です。それは私たちが明け渡して同化すべきno-thing-nessだということです。

「進化の構造」、「存在することのシンプルな感覚」、いずれも先日、永眠された松永太郎さんの訳です。そのすばらしい訳によって、どれほど刺激されてきたことか。本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りしたいと思います。