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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

お金への強迫観念は空性への抑圧から

David LoyのLack and Transcendenceの第5章Trying to Become Realという章を読んでいます。彼がこの本の中でキーワードとしている個人の「欠乏の感覚(a sense of lack)」は、広く社会行動や制度の集合的な無意識に組み込まれていると言います。中世の終わりには「死への関心が著しく増大した」ことに関連してこう書かれています。

心理療法的にいうと、そんな死の不安の増大は、それに対処するためのより強い心理的な道具(devices)を必要とする。その時に成長しはじめたより大きな自己感覚は、より大きな欠乏感によってシャドウ化されたものに違いなく、そしてこの自己をリアルにする(real-ize)ためのより大きな個人的欲求と、そうするためのもっと合理的な企て(attempt)を導く」。

そして現代社会において、このようなリアルになろうとする企ては、4つあるのだと言います。その4つとは「名声欲求」、「ロマンティックな愛」、「お金の強迫観念(the money complex)」、「科学技術の発達に対する人類の集団的エディプス・コンプレックスの投影」であり、こう書かれています。

「名声とお金の追求は、シンボルを通して自分自身をリアルにしたいという企てであり、ロマンティックな愛は、愛されることによって欠乏を満たそうとします。技術的な進歩は地球全体が私たちのリアリティを証明するまで、環境を私たちのグラウンドへと『開発』することによって、自分自身を根付かせようとする集合的な企てとなりました。」
「私たちの欠乏感を解消しようとする意識的あるいは無意識的な衝動、各々のケースに働いている同じ宗教的な動因を理解することができるでしょう。これら4つはそんなスピリチュアルな欲求に動機づけられているという点で、それらは世俗的な異端なのです。それらはその欲求を十分に満たすことができないので、ややもすると、スピンしてコントロールを失い、悪魔と化すのです(they tend to spin out of control and become demonic)。」

そして、この4つの中で今回は「お金への強迫観念(the money complex)」を取り上げたいと思います。お金に関してはもう10年以上もまえに、ミヒャエル・エンデにはじまり、シルビオ・ゲゼル、ベルナルド・リエターと言ったところを読んでいましたので、自分の中ではその続編として位置付けることができました。「お金」というものを特に左象限からみた場合の、しかも高いレベルからみた場合の、理解を大変深めてくれたと思います。

要点は以下の四点にまとまめれると思われます。
①お金が罪の意識と結びついていたということ。
②負債は完済されず未来へ先送りされるということ。
③スピリチュアルな欲求の抑圧がお金への強迫観念を生み暴走させていること。
④お金が空性とある意味で類似していること。

まず、「①お金が罪と意識と結びついていたということ」です。
ノーマン・ブラウンの邦訳「エロスとタナトス」が引用され「お金の強迫観念は、心理学的な罪の意識に根ざしている」と書かれています。そして前近代社会では、それが季節の宗教儀礼を通じて償われるという側面を持っており、このことがお金の暴走を食い止めてきたのですが、現代ではそうした歯止めがなくなり、どこまでも、どこまでも「まだ十分ではない」という制御不能の経済をもたらしているという構図です。
ではなぜ罪なのかというと、それは「何とでも交換できるという」お金の万能性にあるようです。「最初のコインは寺院によってつくられ配布されました。なぜならそれらは神のイメージが刻まれた大メダルで、その保護的な力を表現していたからです。そのような権威を含むことで、お金は自然に需要ができました。」とあります。そのようなお金は人々に畏怖の念を抱かせ、神の象徴のようなお金を使ったり貯めたりすることに罪の意識を持ってしたということのようです。中世では、そのような罪の意識は贖罪の儀式によって償われることでバランスがとられていました。

しかし、現代では「②負債は完済されず未来へ先送りされる」ようになりました。
近代が宗教と芸術、科学、倫理を分化したことをウィルバーも書いていますが、前近代まで未分化であった宗教と経済システムが近代以降は分離したということでしょう。そのことによって、お金に抑圧された罪の意識が償われる機会が失われました。このことは心理的な負債が返済されないということを意味します。「面白いな・・・」と思いました。というのは、心理的な意味だけでなく、社会全体では「本当に」負債は返済されないからです。お金は負債によって生まれます。銀行がお金を貸すことでお金は創造される(参照:ベルナルド・リエター「マネー崩壊、新しいコミュニティ通貨の誕生」)ので、社会全体で負債が完済されることは、お金が消滅することを意味します。ですから、負債が完済されることはないのです。これはまさに、ウィルバーの示したホロンの付加原則2「すべてのホロンはコスモスに対してIOU(借用証)を発行する」に通じるところがあります。

そして、「③スピリチュアルな欲求の抑圧がお金への強迫観念を生み暴走させて」います。P145にこのように書かれています。「私たちのリアルになりたい、あるいは少なくとも宇宙において特別な位置を占めたいというスピリチュアルな渇望は、隣人よりも大きな自動車をもつことへと帰着してきました。私たちはその神聖さを取り除けません、なぜならそれを抑圧することを除いて、私たちの究極の関心を取り除けないからです。ですから私たちはそれらによって、さらにもっと衝動的に駆り立てられるのです。」
このスピリチュアルな渇望とは、欠乏感(a sense of lack)に基づくものです。あるいは逆に欠乏感はスピリチュアルな渇望の抑圧によるものであるといえます。そしてこの抑圧によって衝動的に駆り立てられるのです。これがお金への強迫観念(money complex)の正体です。

最後に「④お金が空性とある意味で類似していること」が龍樹の言葉を引用して書かれています。これはまさにお金というものが、実は「何でも無い」ために、「何にでもなれる」という空性との類似です。ウィルバーの付加原則3「すべてのIOUは空性において清算される」が想起されます。「進化の構造」P294にこう書かれています。「空性、そして空性だけが、すべてのIOUを清算するのである。空性においてのみ、私はコスモスにその負債を支払うことができる。なぜなら空性において私ー私はコスモスだからである。負債は清算され、罪はあがなわれ、コスモスの、超限的な狂気から解放されるのである」
 このことから、今回のタイトルをこうしました。「お金への強迫観念は空性の抑圧から」です。これは個人のみならず集団的な抑圧です。アートマン・プロジェクトの投影先のひとつがお金であるともいえます。究極のゴールデン・シャドウ(実践インテグラルライフP76)であり、そのサインはmoney complexだということです。

以下に今回の記事の参考となった部分の拙訳を抜粋して終わります。(少々長くなってしまいましたが(^^ゞ)

(以下、Lack and TranscendenceのP143〜148より抜粋拙訳)

難しいのは交換の便利な道具としてのお金なのではなく、お金そのものが欲望となるときに生じるお金への強迫観念です。

その追求が人生の質を悪化させる多くの状況についてはどうでしょう?これはどのように起こるのでしょうか?欠乏の感覚を考えれば、これはどうして起こらないといえるでしょうか?(起こって当然でしょう)

お金は、「現実にはそれに相当するものは何もない」ので、もっとも「純粋な」象徴です。私たちが順に回しているコインや紙幣には、それ自体に価値はありません。あなたはそれを食べたり飲んだりできないし、それを植えることもその下で眠ることもできません。同時にお金は、それが価値であるがゆえに、どんなほかのものよりも大きな価値をもっています。私たちが価値をどのように定義するかという問題なので、それはすべてのものに変容させることができるのです。

人生がお金に対する欲望を中心とするようになるという点では、手段と目的の皮肉な逆転が起こります。私たちの欲望はその象徴をやみくもに崇拝するようになるので、それ自体無価値である目標を最大化するため、全てのものの価値が貶められるのです。

どこでもお金は目的として考えられているので、それ自体の中に本当の目的のある無数の事柄が、単なる手段へと堕落(degraded)するのです。

すべてのものがその価格をもち、すべての人も価格をもつとき、シンボル体系の数値的な表現が、表象されたものよりもより重要に―よりリアルに―なってしまいます。私たちはうまくできた価値のある仕事、友人との会合、鳥のさえずりを楽しむよりも、紙の束を数えることに明け暮れるのです。この狂気に活路を見出すためには、それを自己感覚の欠乏感と関連させねばなりません。

仏教徒の言葉では、交換媒体としての有効性を超えて、お金は、私たちの存在がリアルでないという悩ましい直観に対処し、存在を蓄積する(accumulating Being)現代の最もポピュラーな方法です。私たちは、自己感覚の無根拠さが疑わしいので、寺院や教会に行って神の中に自分自身を根付かせます。;今や私たちは経済的に自分自身が救われるために働くのです。

私たちがお金に置く価値は私たちに反発(rebound against us)してきます。それに価値を置けばおくほど、それが私たちを評価するために使えることが分かり(自分自身にもそれを適用し)ます。

現代人は実は物質主義的ではありません。・・・今日私たちの問題は、モノではなく、シンボルを信じていることです。それゆえ私たちの人生は、これらのシンボルとそれを操作することで過ぎ去ります。―そのシンボルによって操作される自分自身を見出すためだけに、私たちはたいそうまじめに取り組み、対象化する行為において、対象化されるのです。

私たちは、お金で買えるものに心を奪われるのではなく、その力や地位に心を奪われるのです。

こんな風に私たちのリアルになりたい、あるいは少なくとも宇宙において特別な位置を占めたいというスピリチュアルな渇望は、隣人よりも大きな自動車をもつことへと帰着してきました。私たちはその神聖さを取り除けません、なぜならそれを抑圧することを除いて、私たちの究極の関心を取り除けないからです。ですから私たちはそれらによって、さらにもっと衝動的に駆り立てられるのです。

私たちは利益目的を自然な合理的なものとして見る傾向があります。(アダムスミスの「見えざる手」の共済)・・・しかしながら前近代社会においては、・・・彼の社会的地位、社会的主張、社会的財産を守るために行動するのです。この目的に奉仕する限りにおいてだけ彼は物質的な商品に価値を見ます。・・・経済システムは非経済的な動機によって動くのです。当時の人々は欠乏に対する経済的な解決策を欲する必要がありませんでした。というのも彼らはそれに対処する他の方法をもっていたからです。

「お金は凝縮された富です:凝縮された富は凝縮された罪です」ブラウンは“Life Against Death”(邦訳「エロスとタナトス」)という著書の最も輝かしい章「不潔な利益」で、お金と罪の間のつながりを発展させています。「罪の究極的な説明が何であろうとも、お金の強迫観念の全体像は、心理学的な罪の意識に根ざしています」。

罪の信念が、償いの可能性を認めたのです。それは季節の儀式や犠牲の中で行われました。

宗教は私たちの欠乏の感覚を償うための機会を、社会的に正当性が維持されてきた―十字架、聖餐式、ミサ―というシンボルの手段によって提供します。そのような文脈で聖なる交信ののち、私たちは神を近くに汚れないものとして感じるのです。

しかし、現代の神経症タイプではどうでしょうか?罪への宗教的な信仰をもたない罪人、それゆえ新しい合理的な説明を彼らは求めるのですが。そのために宗教的な説明(explanation)を持たないとき、どのようにしてあなたは、欠乏の感覚を償うのでしょう?今日のその非宗教的な代替手段は、自分たちの欠乏を「まだ十分ではない」ものとして経験することです。このことは、循環する時間(贖罪の季節の儀式によって維持される)を、未来に起こる、それゆえ直線的に流れる時間(その中では欠乏の贖罪は永久に先送りされる、なぜなら決して達成されることがないから)へと、とり変えてしまいます。欠乏の感覚は引き続き残ります。しかしながら私たちの集合的なそれに対する反応は、成長のための欲求となります。前より高い生活水準を!(しかし欠乏は、消費者が決して十分ではないことを意味します)鳴りやまぬ経済発展の大合唱です。(なぜなら企業とGNPは決して大きく、十分ではないからです)。両方の心臓、いや正しくは血液は、お金の強迫観念にあるのです。

この結論は、「純粋な罪の感覚によって突き動かされる経済、どんな救いの感覚によっても静めがたい」ものであり、それは「罪の感覚に駆り立てられる、さらなる制御不能である。なぜなら罪の問題は無意識への否認によって抑圧されているから」です。ニーチェ曰く、それは億万長者の理由であるばかりでなく、私たちの中に勃発(break out in us)しすぎる狂気なのだと。今日、その狂気の集合的なバージョンは、経済成長のカルトです。それは事実上私たちの宗教的な神話となったので見抜くのが困難です。

もしそうなら、私たちは問題が何であるかを理解できるでしょう。お金と経済成長は欠陥のある神話を構成しています。なぜならそれらは罪の償いを提供できないからです―仏教徒の言葉では、欠乏が解消できない(no resolution of lack)ことだと言えます。私たちの新しい聖域中の聖域、現代人の真の寺院は、株式市場、崇拝の儀式はダウジョーンズ指数との交信です。・・・しかしこの中に贖罪はありません。・・・それは私たちが最後まで自分の知っているやり方だけで無意識に償いを続けることを意味します。社会が私たちに、「それは大切だ。なぜならそれは幸せにしてくれるから」というものすべてを獲得しようと一生懸命働きます。そしてその時なぜそれらが私たちを幸福にしてくれないか、なぜそれらが私たちの、何かが欠乏している、という感覚を解消してくれないのかを理解できないのです。

人間の心理には、楽しみではない働くことにコミットしようとする何かがある。・・・その何かが私たち自身の欠乏のシャドウである限り、それに対する終わりがない理由です。

もし、最も純粋なシンボル、であるお金がリアルになることを象徴するなら、私たちが決してまったくリアルではないという事実は、純粋な繰り延べ(deferral:支払猶予)を手の中に最後まで持ち続けることを意味します。積み上がったそれらのチップは決して現金化されません。

これはすべて、私たちの経済システムと継続的な成長を求める他のもの、(もしそれが崩壊しないなら)との根本的な欠陥を指し示しています。それを動機づけるものは欲求ではなく怖れなのです。それが私たちの欠乏感を食らい、そして煽っているのです。つまり、最も純粋なシンボルを操ることへの没頭が、それを人生の問題を解決する手段であると思っているのですが、問題の最も致命的な症候のひとつであることが判明するのです。

 興味深いことに、お金の最も類似しているものは、空性(シュニヤータ)かもしれません。龍樹は警鐘を鳴らします。それは物事の相互依存関係を説明する、ヒューリスティックな道具(デバイス)であり、無自性(nothing self-exists)です。しかしもし、私たちがこれを誤って理解したなら、その治療は病気よりももっと危険なものとなります。それ自体が無であること、単にシンボルであることもまた、お金が、ひとつのものを他のものと交換できるそのユニークな能力ゆえ欠くことのできぬものなのですが、あまりに間違った目的でこの蛇をわしづかみする人は、悲劇となるのです。(抜粋拙訳ここまで)

今回は長くなってしまいました。ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。