ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

マインドとの脱同一化と、絶対否定

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エックハルト・トールがくどいほど繰り返しいっていることのひとつは「マインドとの脱同一化」である。

昨日ちょっとした心理的緊張状況があり、そのことをエックハルト・モデルを使って振り返ってみた。

対人関係の場面で先方が発したメッセージに対して、自分の思考があるラベルを張りつけ、その思考に対して、身体が反応し、

怒りとなって次の思考にフィードバックされ次の自分の言葉として発せられたというサイクルが形成されていたことが見事に思い出された。

そしてこのサイクルが自覚できていない間は、その後も数時間にわたってこのラベルが無意識に身体に影響を与え続けていたことも分かった。

あなたは正しくない、いや私は正しい


あなたはずるい、いや私はずるくない

このとき、ふっと

あなたは正しくない、いや私は正しい、 
いや本当は、正しのでも、正しくないのでもない、  のだということが分かった。

あなたはずるい、いや私はずるくない、
いや本当は、ずるいのでも、ずるくないのでもない、のだ。

これは、龍樹のいう絶対否定ではないか!

そうか!こういうことだったのだ。

瓜生津隆真著「龍樹―空の論理と菩薩の道」(p131〜p132 )によると、

(以下引用)
事物は、すべて空であるというとき、事物の生滅も、事物の相対的区別も根底から否定される。「生ずるものでもない、滅するのでもない」とか、「有でもなく、無でもない」とか、「自でもなく、他でもない」とか、「善でもなく、悪でもない」などというのは、まさしくそれを示している。あるいは「生滅を超える」「自他を超える」「善悪を超える」などというのも同じである。

 しかしこのようないい方は、明らかにわれわれの通常の思考とは、反していて、それでは意味をなさない。すなわち通常の思考の枠を突破しなければ、空ということは永久に理解できない。ことばを超えた空の世界は、空がことばを超えていることをことばで表現しなければ示すことができないのであり、それが空の否定表現である。「有るのでもなく、無いのでもない」ということがそれであり、これは一方の否定が他方を肯定するというような否定ではない。有も無もともに否定している、絶対否定なのである。

 それでは有も無もともに否定する絶対否定は、一体何を示そうとしているのであろうか。なぜ生起も消滅も幻であると、両方を否定するのであろうか。その答えは、もはや常識の世界における思考のなかには見出しえない。空の否定は、まずそのことをわれわれに気づかせてくれる。世間の常識的思考の枠を破ることを指し示すと、いってもよい。そうして、われわれ人間が有無相対の思考の枠に留まっている―したがって有無にとらわれている―その束縛から、われわれを解脱せしめるのである。有も無もすべて否定することは、有無の相対的立場を超え、さらに有無のとらわれ―これが有無の邪見といわれる―を打ち破ることに他ならない。これが答えである。(引用ここまで)

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龍樹のいう絶対否定は、思考あるいはマインドとの脱同一化によってなされる。

その意味では、上の図のMindは対極性をもつ左のような図形として描かれる方がより適切かもしれない。

有無相対の思考の枠であるMindには互いに対極が存在するが、Mindを対象として目撃するSELFに極性はないのである。