ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

なぜ、書道は、書「道」か?

昨夜、眠りにつく前に

書道がなぜ書「道」なのか?

なぜ「道」がつくのかが分かった!と思った。

私は、道がつくものはタオへとつながるもの。

究極への道。タオへの道。

であると、もともと考えていた。

ラストサムライで剣の極意としてNo mindを学ぶシーンが出てくるが、

それが剣道の「道」たるゆえんである。

では何ゆえ

書「道」なのか?

写経も明らかにそうだと思うのだが

書道はひとつのポータルなのだ。

「道」としての書は、言葉というものに内在する限界によって

表現することのできない境地に入るためのポータルだったのだ。

もう少し、丁寧に説明してみよう。

「大切なのは目的や行動ではなく意識の状態」である。・・・
電話帳のページをめくることの主たる目的はページをめくること。
2次的な目的は電話番号を見つけること。・・・

『モモ』の道路掃除夫ベッポのことばと「行為の質」 - ウィルバー哲学に思う


これはニューアースに出てくるエックハルト・トールの言葉だが、

エッ?というように思う人も多いだろう。

通常は、「電話帳のページをめくることの主たる目的は?」と問えば

「電話番号を見つけること」が主目的であり、

2次的な目的、あるいは手段が「電話帳のページをめくること」となるはずである。

しかし、おそらく書道のような「道」をするときの目的はそうではないのだ。

写経をするときの目的はそうではないのだ。

その目的はその時の意識の状態そのものなのであって、行為によってもたらされる成果なのではない。

意識の状態が反映された、行為そのものの質なのである。


パソコンで活字を打つことが多くなり、字を書くことの少ないこの頃であるが、あの「字を書くことそのものの味わい」を忘れたくないと思う。