昨夜、眠りにつく前に
書道がなぜ書「道」なのか?
なぜ「道」がつくのかが分かった!と思った。
私は、道がつくものはタオへとつながるもの。
究極への道。タオへの道。
であると、もともと考えていた。
ラストサムライで剣の極意としてNo mindを学ぶシーンが出てくるが、
それが剣道の「道」たるゆえんである。
では何ゆえ
書「道」なのか?
写経も明らかにそうだと思うのだが
書道はひとつのポータルなのだ。
「道」としての書は、言葉というものに内在する限界によって
表現することのできない境地に入るためのポータルだったのだ。
もう少し、丁寧に説明してみよう。
「大切なのは目的や行動ではなく意識の状態」である。・・・
電話帳のページをめくることの主たる目的はページをめくること。
2次的な目的は電話番号を見つけること。・・・
『モモ』の道路掃除夫ベッポのことばと「行為の質」 - ウィルバー哲学に思う
これはニューアースに出てくるエックハルト・トールの言葉だが、
エッ?というように思う人も多いだろう。
通常は、「電話帳のページをめくることの主たる目的は?」と問えば
「電話番号を見つけること」が主目的であり、
2次的な目的、あるいは手段が「電話帳のページをめくること」となるはずである。
しかし、おそらく書道のような「道」をするときの目的はそうではないのだ。
写経をするときの目的はそうではないのだ。
その目的はその時の意識の状態そのものなのであって、行為によってもたらされる成果なのではない。
意識の状態が反映された、行為そのものの質なのである。
パソコンで活字を打つことが多くなり、字を書くことの少ないこの頃であるが、あの「字を書くことそのものの味わい」を忘れたくないと思う。