宮沢賢治の「インドラの網」の中に書かれている表現は次のようになっている。
「ごらん、そら、インドラの網を。」
私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変わったその天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億互に交錯し光って顫(ふる)えて燃えました。
このブログでもDavid Loyの引用として、以下のように取り上げたことがある。
仏教によると私たちの最も問題となる二元論は、死を恐れる生なのではなく、それ自体の無根拠性を恐れるもろい自己感覚なのです。その無根拠性を受け入れ(accepting)明け渡す(yielding)ことによって、私は常にインドラ網(注)に根ざしていた(grounded in)のであり、自己完結的(self-enclosed自己閉鎖的)な存在としてではなく、すべてを包み込む関係性の網目としてのひとつの顕現であることを発見できるのです。
注)インドラ網:インドラ(帝釈天)の宮殿にかかる網のこと。網の結び目にそれぞれに宝珠がついていて、その一つひとつが他の一切の宝珠を映し出すという深遠な世界を示す言葉。(拙訳)
ミンゲールはThe joy of Livingの邦訳「『今、ここ』に生きる」の第13章で慈悲(Compassion)について書いている。
P224に、こうある。
慈悲とはすなわち、あらゆる人、あらゆるものが、己れ以外の人やものの反映にすぎないということを認めることです。『華厳経』という古い仏典にはこう書かれています。宇宙とは無限の網であり、ヒンドゥー教の神インドラ(帝釈天)の意思によって生じた。この無限の網のすべての網の目に、何面にも分割されて美しく磨きあげられた宝石がぶら下がっている。その一面一面に他の宝石のすべての面が同じように映っている。網も宝石も、宝石の各面も無限なのだから、それらを反映した像もまた無限である。宝石の中のどれかひとつに変化が生じると、他の宝石もすべて変化してしまう。
最初の「慈悲とは、あらゆる人、あらゆるものが、己れ以外の人やものの反映にすぎないということを認めることです」という表現は、原書ではこうだ。
Compassion is essentially the recognition that everyone and everything is a reflection of everyone and everything else.
下線部分をシンプルに訳すとこうだ 「すべての人、すべてのものは、彼(それ)以外のすべての人、すべてのものの反映なのだ」
もっとシンプルにして「すべてのもの(everything)」を除くとこうなる。
「すべての人は、彼以外のすべての人の反映なのだ」
この意味はすなわち、「私とは、私以外のすべての人の反映なのだ」となる。
ここでふっと何か・・・を感じた。
これは私という宝珠をAとするなら、そのAの球面にBCDE・・・という他の宝珠が無限に映っているというイメージだ。
「私」には2つの側面がある。ユニークセルフとしての側面と、空として定義を超えた存在としての側面だ。
宝珠のイメージは、この2つの側面の両方を表現している。
以前はインドラの網といえば森羅万象の「つながり」を描きだしているイメージが自分の中で強かったが、
今回は、他のすべての反映である宝珠がクローズアップされ、
ひとつの宝珠がひとつの宇宙であり、その宇宙は自分以外のすべての人、すべてのものを包含しているという感覚が広がった。
少し、ほんの少しだけ、Compassionの意味が分かったような気がした。