ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

心の部屋に灯りをつけるマインドフルネス

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ミンゲールのJoyful Wisdom(邦訳書は未刊)の第2章に、パリのろう人形ミュージアムでのエピソードが書かれている。

ダライ・ラマのろう人形の隣に立っていたミンゲールを、ろう人形だと思い込み、ダライ・ラマとのツーショットの写真を撮ろうとした観光客が、シャッターを切ろうとしたそのとき、彼が動いたので大変驚いたという話であるが、

人とは、いかに簡単に現実を間違って認識する傾向があるのかということの例として取り上げている。

そしてP34の6行目から以下の文章がたいへん興味深かったので掲載したい。(以下、拙訳)


同じように、たいていの人はさまざまな先入観や信念によって、行く手を塞がれており、人の人生の基本的な事実について無知なままである。それは私の師が「基本的な状況(the basic situation)」と呼ぶものだ。

その状況とは何かを理解するために、私たちは、仏陀が悟り(enlightenment)に至った後まさに最初に与えた教えを見る必要がある。

実際に悟りとは全くシンプルだ。暗い部屋をいつものように歩いている時のことを考えてほしい。

テーブルや椅子、その他の小さな家具にドスンと突き当たるのはいつものことだ。

ある日、私たちは偶然、幸運にも、灯りをつけるスイッチボタンにかする(手か腕か、あるいは背中で)。

突然、私たちはその部屋の全体を見る。その中にあるすべての家具を、壁を、絨毯を。そして思う。

「見てごらん、ここにあるモノ(stuff)を!」「私がいつもドスンと当たっていたのも不思議じゃない。」

はじめてそれを見るときの驚きの感覚をもって、この家具(stuff)すべてを見る時、灯りのスイッチはいつもそこにあったのだということを私たちは理解する。

私たちがそれを知らなかっただけなのだ。あるいは、私たちが部屋とは暗い以外の何かであるという可能性(the possibility that the room could be anything but dark)について考えたことなどなかったというだけなのだ。

暗闇を通り抜けるために、私たちが人生の大半を費やしてきた部屋の灯りのスイッチを入れること、それが悟りを説明するひとつの方法だ。

おそらく仏陀のもっとも特筆すべき業績は、次のメッセージを発したことだろう。

私たちは、暗闇の中を歩くことに慣れてしまったので、灯りのつけ方を忘れてしまったのだ。(we’ve become so used to walking in the dark that we’ve forgotten to turn on the light.)(引用ここまで)

これは思考や感情、感覚を観察するマインドフルネスがいかに重要かを説明するための喩え話である。

テーブルや椅子などの家具が、思考や感情である。あるいは上述の言葉でいうと先入観や信念かもしれない。灯りがついていない暗い部屋とは、それらを観察しようとしない人の意識の状態である。

観察するという行為が、灯りのスイッチをオンにすることだ。

この喩えにより、灯りをつけずに暗い部屋を通り抜けようとすることが、いかに無謀であるかが分かる。

そのようなstuffにドスン、ドスンと突き当たって苦しむのは当たり前なのだ。

スイッチはそこにあったのに「それを知らなかった」「部屋とは暗い以外の何かであるという可能性について考えたことなどなかった」というのが、「無知」(「今、ここを生きる」ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェP152)であろう。

部屋とは「心(意識)」の喩えだ。

「暗い以外の何かである可能性」とは、意味深である。

これはp64(同上)にある、

仏教者として、最初に私が習ったのは、心の本当の姿(fundamental nature of the mind)というのは、あまりにも広大で、知的な理解を完全に超えている、ということでした。


という言明に対応していると思う。

この「あまりにも広大」とは、12月26日のブログで表現したかったSpaciousness、あるいはvastnessだ。

今日一日をどういう状態で過ごすか?Presenceの持続。 - ウィルバー哲学に思う


あの日のブログの図では、この部屋におかれているStuffは白抜きの部分である。心の本当の姿とはこれらの白抜きを含む青地と白抜きの全体像だ。

マインドフルネスは「心の充実」と訳されているが、P58(同上)にこのように書かれている。

仏教者の修行は、続々と起こる思考や感情、感覚にありのままに気づき、そこに心をただ休めることができるかどうかにかかっています。仏教の伝統では、この穏やかな気づきの意識は「心の充実(マインドフルネス)」と呼ばれています。心に本来備わる「明晰性」のなかにただやすらぐこととも言えます。


青地の部分にclarityがあったのを思い出してほしい。

「そしてまたPresenceにこそfullnessがある。」と書いたが、これが実は、マインドフルネスの真髄である。

心を「観察する」、「ウォッチする」ことになぜ「明晰性」や「充実」が伴うのか、知的に理解していただけでは分からない。

それは体験するものだからだ。

理論と実践、知識と体験、この両輪が大切だ。

暗がりのなかを通り抜けるという無謀をやめて、心の灯りをつけて歩もう。そこにはやがて明晰さと満たされた感覚が伴うはずだから。