ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

絶対肯定としての「トンパ・ニ」

ミンゲールの「今、ここを生きる:The Joy of Living」の

第4章 空―実在を超えた実在


のP80で「空」のことがこう説明されている。

心をただ休める時に経験する広々と開いた感覚を、仏教では「空」と呼んでいます。・・・「空」という言葉を「無」("the Void” or nothingness)、つまり「何も存在していない」というふうにとらえるのは間違いです。「無」はブッダが示そうとした真実からかけ離れています。
 ブッダが説いたのは、本性がそもそも空だということです。真空のように何もない、ということではありません。チベット語では「空」は「トンパ・ニ(tongpa-nyi)」という二つの単語からなっています。「トンパ」とは「空(から)」という意味ですが、それは私たちの感覚や思考ではとらえることができない、という意味です。「考えることができない」とか「名前をつけることができない」といったほうがいいかも知れません。「ニ(nyi)」というのは、これ単独では特に意味がありませんが、別の言葉につけると、何でも起こりえる(anything can arise, anything can happen)、という「可能性」の意味が加わります。


また、梅原猛の「仏像のこころ」という本の中に十牛図を解説した部分がありp279の「絶対の否定から絶対の肯定への飛躍」という節の中で次のように書かかれている。

禅では特に、第八から第九の過程を重視する。第八「人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)」においてすべてのものが否定される。哲学的な言葉で言えば、絶対の否定である。その否定の果てに、第九「返本還源(へんぼんげんげん)」のように、再び全世界が肯定される。哲学的な言葉で言えば、絶対の肯定である。絶対の否定の世界は、いわば静かな観照の世界である。そこではすべてのものは意味を失い、人はすべてのものに対する執着を離れ、静かに世界を眺める。禅はこのような否定の世界からもう一度肯定の世界に帰ってくる。この絶対の否定の後に実現された、絶対の肯定の世界が第九「返本還源」であろうが、このように肯定的に世界を眺めるばかりでは十分ではない。もう一度、こういう静かな観照の世界から、現実の世界に下りてこなければならない。そして、布袋の如くに巷に入って、慈悲の実践をしなければならない。これが第十の「入鄽垂手(にゅうてんすいしゅ)」の世界であろうが、そこで禅はいたずらに静観的なものではなく、実践的に世界に働きかけるものとなる。
否定を通じて肯定へ、このような理論をヨーロッパでは弁証法という。したがって禅の中には弁証法があるといわれている。

2010年11月26日のブログ「悪い無限」を空なる心の自由へと反転する、それは「無形の位」 でも取り上げたDavid LoyのLACK AND TRANSECENDENCE (p94)にこうある。

http://nagaalert.hatenablog.com/entries/2010/11/26

悪い欠乏の無限は、特に何かであることを必要としない、良い変化の無限へと変容するのです。ヘーゲル哲学の言葉では、これは、他による決定(other-determination)のもつよそよそしさ(alienation)を、存在それ自体の自由へと変容する。仏教の言葉でこれは、常に執着しようとする反射的な自己感覚の疎外(alienation)を、空なる心の自由へと変容するとなります。それは何かになる必要などないので、どんなものにでもなることができるのです。(“empty”mind that can become anything because it does not need become something)

これら3つはどれも同じことを言っている。非二元において「絶対の否定」は「絶対の肯定」へと転じる。それは実存的苦悩からの解放だ。

1月9日にDavid Loyのインドラ網の引用をした。

私は常にインドラ網に根ざしていた(grounded in)のであり、自己完結的(self-enclosed自己閉鎖的)な存在としてではなく、すべてを包み込む関係性の網目としてのひとつの顕現であることを発見できるのです。


これには続きがある。

欲求の問題はそれを変容することによって解決します。私たちが欠乏に衝き動かされている限り、すべての欲求は底なしの穴を満たそうとする厄介な愛着になります。欠乏なしの、私たちの無であること(no-thing-ness)の静穏、どんな固定した性質ももたない、それは、どんなものにでもなれる自由を授けるのです。


マズローは、第4段階(Self-Esteem)欲求までは「欠乏の欲求」(deficiency needs)に動機づけられており、第5段階(Self-Actualization)以上は「存在の欲求」(being needs)に動機づけられる、と明言した。インテグラル理論ではこの違いが第一層と第二層の大きな違いのひとつ(注)であるとしている。

それはともかく、般若心経などに見られる「絶対否定」の一体なにがどうすばらしいのか分からないという人(私もそうだったが)にとって、こうした切り口は何かしら大きなヒントになるのではないだろうか。

絶対否定転じて、絶対肯定としての「トンパ・ニ」。

私の「空」の解釈にまた新たな味わいが付加されたように思う。

(注)もうひとつの違いは、第一層では自分と異なる他の価値観を認めようとしないが、第二層ではすべての価値観に、部分的に正しいという余地を与え、より大きな織物の中にそれらを統合し包含する。(the Integral Vision p120)