ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

「焦り」と対極にある「道」

昨年末、年賀状に個人的な関心領域の近況を何と表現しようかと考えて「プライベイトでは相変わらず『道』を探究していますが・・・」と書いた。

この『道』は老子の「道徳経」で語られる「道」に近いイメージで書いたのだが、最近、ミンゲールやティクナットハンのいう「マインドフルネス」、エックハルト・トールのいう「presence」、あるいはフェーミ博士の「オープンフォーカスのディフーズド/イマースト」の状態が、茶道や書道などの「道」に通ずるものではないか、という思いが次第に強くなってきた。

逆のいい方もできる。茶道や書道などの「道」は、「マインドフルネス」や「presence」に通ずるものなのかもしれない、と。

そしてまた、そうした状態の特徴のひとつとして、それは「焦り」と対極にある状態だという思いをもつようになった。

抵抗Resistance 待ちWaitingは、マインドフルネスとは逆の心理状態といえるが、「焦り」もそうではないだろうか。

Waitingに気づく、そして存在することのシンプルな感覚 - ウィルバー哲学に思う

 

よく本を読みながら行間に書き込みを入れることがある。

その書き込みが、きれいに(自分的に)書ける時もあれば、粗雑で見苦しいものとなる時がある。

何が違うのだろう?

微妙な「焦り」が背景にある時に、文字が乱れるのだ。

おそらくそんな時は無意識に「今」を、その先に達成される成果のための準備の時間、手段の時間として位置付けてしまっている。

書く文字の美しさよりも、効率重視で手際良く内容を書き記すことを無意識に尊重してしまっているのだ。

このことは仕事についてもいえる。

期限までに抱えている仕事が多くなり、にもかかわらず、周囲にその切迫感がなく、しかも生産性が低いことをやっているように見えるとイライラしてくる。不機嫌になる。

しかし、これは全くもって反対をやっているのだ。

本当は、成果を上げるためには、質をともなった瞬間を生きることが必要で、質をともなった瞬間を生きるためには、焦りと対極にいなければいけない。

それは「道」であるとも言える。

日本の「道」は、マインドフルネスだ。

ティクナットハンのマインドフルネスの中に、週のうち一日をマインドフルネスの日にすればよいという話しが出てくる。

ゆっくりと、静穏に(calmly)に、意識的に、何事も行うのだ。

そのような一日をもつことによって、マインドフルネスはその一日だけでなく他の曜日へと浸透して行く。やがては週のすべての日、すべての時間、マインドフルを保つことが可能であるという。

日本においては、そのような(マインドフルネスの)時間を意識的に作ることが「道」として確立されたのではないか。

先日ふっとそんな気がした。

それは端的に行って「焦り」と対極にある境地で行うものである。

目的は、成果ではない。プロセスだ。

藤城清治さんが影絵を切って行く時の心境だ。

そのこと自体に喜びを伴っているか? - ウィルバー哲学に思う


企業コンサルの仕事をしていた時に、このような瞬間があったことを思い出した。

過去数年間の財務データをじっくりと分析する。予断なく。すると突然、いくつかの断片的な傾向が構造化する。ジグソーパズルが次々と当てはまっていくように。

あるいは、幹部のヒアリングデータとアンケート結果を丹念に精査して行く。するとバラバラに見えた問題点を統合しうる(アウフヘーベンする)概念が浮かび上がる。

このような仕事は楽しい。

本来的ではない集合意識に苛まれなければ、こうした境地をもっと尊重しつづけることが出来たかもしれない(その頃に)。

否、本来的ではない集合意識に苛まれていることに気づいておれば、こうした境地を意識的に選択することができるのだ。

それは日常を、仕事を「焦り」とは対極の「道」にするということ。

頭で「明晰」、腹で「敏」を、そして喜びと充実を伴って、クオリティを刻み込むのだ。