ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーを中心に、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラー、ポジティブ心理学など、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、「生命の躍動」の探求、心理哲学的な関心について綴っています。

自作の苦(pain as self-created)

ミンゲールのJoyful Wisdomの中に「二本の矢」に通じる話があったので紹介したいと思います。(以下、P46~引用拙訳) 

Milton's Secretと「二本の矢」 - ウィルバー哲学に思う

私たちはコントロールできない経験の感受に関してはたくさんの選択をもたない。しかし苦痛、不快、ドゥッカ、あなたがそれを何と呼ぼうと構わないが、もうひとつの選択肢がある。・・・

私の父と他の教師は、このタイプの苦痛を、「自作の苦痛(pain as self-created)」として、考えさせた。

それは、好まないやり方の他者の言動によって引き起こされる衝動的な怒りやいつまでも消えない憤慨、自分より多くをもっている人に対する嫉妬、恐れる理由などない時に起こる動けなくなる不安、のような状況や出来事の解釈から発生する経験だ(experiences that evolve from our interpretation of situations and events)。

自作の苦悩は私たちが自分自身に語るストーリーの形をとる。十分良くはない、お金は十分ではない、魅力も十分ではない、なにか他の保証は・・・など。しばしばそれは無意識に深く組み込まれている。

世界を回って教えを伝えていた数年前に遭遇した「自作の苦悩」のもっと驚くべき形は、身体的な外見のことだ。

人々は私にこういった。どうして快い感じを持つことなどできるでしょう。なぜなら私たちの鼻は大きすぎ、アゴは小さすぎるのですから。

たとえ整形外科で修復しても、それで十分か、人はどうみているかを彼らは気にするのだろう。

私が最近あったある女性は、自分の頬骨が他の人より大きいと固く信じていた。

私はそうは思わなかったが、彼女はこの違いはリアルで、確かにそれが彼女を醜くしていると思っていた。

形が崩れているのは、歪んでいる(deformed)のは彼女の認識なのだと私は思った。自分の目と他者の目との間での認識が大きく食い違っているのだ。

彼女が鏡を見るたびに、その歪み(deformity)は深刻になるように思われた。

そして自分以外の誰もがそれに気づくはずであると確信したのだった。

彼女は人が彼女に反応するさまをモニターし、頬骨の違いのせいである種のモンスターとして扱われていると確信したのだった。

結果、彼女は周囲に羞恥心を抱くようになり、人との接触から引きこもっていった。彼女は醜いと感じ自身がなかったので、仕事の成果も下向きとなった。

ところが実際に鏡の中の頬骨を測ると、他の人たちとの違いは8分の1インチ以下だった。

彼女は、「歪み」が、そして彼女の経験した絶望、怖れ、自己嫌悪の数年間というものが、彼女自身の心が作り出したものであるということを理解しはじめた。

そう、自作の苦悩は、本質的に心の創造物だ―わたし自身の不安の経験が私に明らかにしたように―、だからといって本来の(natural)な苦悩より小さいということではない。

事実、それはより過酷なものとなることがある。

 



私はインドで知り合った僧のことを鮮明に思いだす。

彼の友人は脚に腫瘍があると診断され、冒された脚を切断する手術をした。

しばらくして、この僧は足に激しい痛みを感じ始め、動かすことができなくなった。

彼は病院に連れて行かれ、レントゲンや様々な検査を受けたが、どこにも器官的な異常は見当たらなかった。

検査の結果が示された後でも、その僧は脚に激しい痛みをまだ感じていた。

そこで医師はもうひとつの方面から探り始めた。僧の生活にあった出来事について。それが彼の足の苦痛を発症し進行させているのではないかと。

最終的に、彼の友人の手術の後、ほとんどすぐに痛みが始まっていたことが明らかとなった。

医師は思慮深くうなずいて、友人に面会したときの彼の反応について尋ねた。

だんだんと、僧はとてつもない恐れを感じたことを認め始めた。切除された脚の苦痛について、松葉杖で歩く方法を学ばねばならないことや、当たり前と思ってやってきたあらゆることの困難さ、など。

ヒポコンドリアという言葉を使うことなく、彼が心で作り出した異なるシナリオのすべてを通して、医師はたいへん優しく、彼を導いた。

やがて僧はどれほど深く苦痛への恐れ、そして怖れへの怖れが、彼に影響していたかを理解した。

彼は話しながら、脚の症状が薄れて行くのを感じた。そして次の日、病院から出て歩くことができ、痛みから解放され、最も大切なことに、痛みの背景にあった恐れから解放されたのだ。(引用ここまで)

 


恐れが、ありのままの事実から歪みを引き起こし、その歪んだ認識にさらにまた恐怖する、という構造が分かりやすく描かれているなと思いました。

「自作の苦」に加えて、このあとの章では「無常の苦」について書かれていますが、それは、また後日取り上げたいと思います。