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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

The Suffering of Change 変わりゆくものに執着する苦しみ

Let it goまたはLet it be とらわれ ヨンゲイ・ミンゲール 苦痛から苦悩へ David Loy

ミンゲールのJoyful WisdomのP52から、二つ目の苦しみのタイプThe Suffering of Changeについて書かれている(一つ目はSuffering of Suffering、三つ目はPervasive Suffering)。

「変わりゆくものに執着する苦しみ」と訳すのが適切ではないかと思う。以下にその部分を紹介する。

(以下、引用拙訳)

私が説明を受けた、苦しみの2つ目の分類は、もっとより微妙なものだ。

「変化にもとづく苦しみ(The Suffering of Change)」と称されるこの種の苦しみは、変わらざるを得ないモノや状況から満足や快適さ、安全あるいは楽しみを引き出す言葉としてよく使われる。

例えば、あなたが新しい車を、テレビを、すべて最新のピカピカの新しいパソコンを買ったとしよう。

しばらくは、うっとりしているだろう。何てスムーズにこの車は走るんだ、信号が青に変わった瞬間の加速のすばらしさ、寒い朝には自動的に座席を温めることもボタンひとつだ。

新しい薄型のテレビの画像はどれほど明るくクリアーなことか、精細度は驚くほどで、見たことないほど細かい部分まで見ることができる。

新しいパソコンは異なるプログラムを10個信じられない速さで走らすことができる。

しかし、しばらくすると、あなたが購入したものの新規性は剥がれ落ちる。

おそらく、車は故障し、あなたの知人がもっと大きなもっと鮮明なスクリーンのTVを買い、コンピュータは壊れる、あるいはもっと多くの特徴とパワーを備えた新しいモデルが登場する。あなたは思う、待てばよかったと。

あるいはおそらく、あなたを幸福にしてくれるのはモノではなく、状況だ。

あなたは恋に落ち、世界は虹で満たされる。あなたが彼(彼女)のことを考える時はいつも、笑みを絶やすことができないほどだ。

あるいは新しい仕事、あるいはプロモーションを手に入れる。そして、おお、あなたが今や一緒に働いているみんなはすばらしい、そしてあなたが稼いだお金、ついにあなたは借金を完済できる、おそらく新しい家を買うだろう、あるいは貯蓄をはじめるかもしれない。

だが、しばらくして栄光は剥がれ落ちる。ちがいますか?たったニ、三か月前に完璧だと思われた人の中に欠陥が見つかりはじめる。

新しい仕事はあなたが想像した以上に、そして報酬以上に時間とエネルギーを要する。そう、想像したほどすばらしくはないのだ。

 

 

税金を払い、借金を返済したなら本当に貯蓄に回すほど多くは残らないのだ。

この「変化の苦しみ(The Suffering of Change)」の説明は近いものだが、ポイントを見落としている。

新しさが薄れ、状況が剥がれおちて行くときに経験される不満あるいは幻滅は、実際には「苦しみの苦しみ(the Suffering of Suffering)」だ。

「変化の苦しみ(The Suffering of Change)」はより正確には、あなたが欲するものを得ることから引き出される楽しみから生じる。

それは人間関係、仕事、高難度の試験、ピカピカの車。

不運にも、外から引き出される楽しみは、本来的に一時的である。

一度薄れると、ノーマルな状態に戻ることは前に比べて耐えがたいように思われる。

そうして私たちはもう一度求める。おそらく、また別の関係を、別の仕事を、別のモノを。

何度も繰り返し、私たちは楽しみを、快適を、探す。あるいはおそらく高い望みや期待を満たすことのできないモノや状況から離れるのだ。

その時「変化の苦しみ(The Suffering of Change)」は、ある種の中毒のとして理解することができる。決して到着することのない永久の「ハイ(high)」に対する終わりなき希求(seek)だ。

事実、私に話した神経科学者によると、欲するものを手に入れるのを予期することから感じるハイ(high)は、ドーパミンの分泌と関連している。それは脳内の化学物質で、他のものと一緒に、楽しみの感覚を作り出す。

時がたつにつれ、私たちの脳と身体は、ドーパミンの分泌を刺激する行為の反復に動機づけられる。

私たちは文字通り、予期(anticipation)にフックされるのだ。

チベット仏教のテキストでは、この種の中毒的な行為を、「陰にカミソリの隠れている蜂蜜を舐めること」に喩える。

最初の感覚は甘いものだが、その奥にある影響はとてもダメージを与えるものだ。

他者に充足を求めたり、外のモノや出来事に満足を求めることは、私たちがそのままでは全く完全ではないという信念を、より深くしばしば認められない信念に強化する。

全体性、安心、安定の感覚を経験するためには、自分自身を超える何かが必要だという信念を。

「変化にもとづく苦しみ(The Suffering of Change)」はおそらく、私たちの条件づけられた見方から最も生じる。

私のためになるこれやあれがある限り私は幸せだ。私の仕事は必要とされている。少なくとも私はすばらしい人間関係をもっている。(あるいは健康を、容姿を、すばらしい家族を)

という見方から。(引用ここまで)

 


これは、世界的な仏教学者であるDavid Loyのいう「リアルになるための4つの試み」と同じであろう。Loyは、欠乏感(A sense of lack)を満たす試みとして、「名声」「ロマンティクな愛」「お金への強迫観念」「技術の進歩への集合意識」をあげている。

お金への強迫観念は空性への抑圧から - ウィルバー哲学に思う


どれも、いくら求めても際限なく続く幸福の代用品だ。

そういえば、ある企業で、「ワクワクすることをするのが良い」という価値観が広まっていたことがあった。 

そのことが間違いであることが今日のテーマからはっきり分かる。

内ではなく外に、あるいは変化せざるを得ないものにワクワクの源泉を求めることは、不安と中毒症状を強めるだけだ。

そうか!「福は内~」とはこのことだったのか・・・(笑)あれ?今日からもう3月か。