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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

五蘊その1(色)―Body

苦しみの根本は、五蘊の本質である無常、無我(nonself)、相互依存性を理解することの欠如によるものである、とThich Nhat Hanhは書いています。

今回からAyya KhemaとThich Nhat Hanhによる五蘊の解説をひとつずつ取り上げ、吟味したいと思います。

今回は「色(しき)受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)識(しき)」という五蘊の色(しき)すなわち、The Bodyです。

以下、Ayya Khema の“Being Nobody, Going Nowhere” (p117-p120)からの抜粋です。(拙訳)

纏いつく五蘊のうち最も粗大で顕著なものが身体(形態)だ。誰もそれを忘れることなどできないし、誰しもその種の問題を抱える。必ずしも一貫しているものではなく時折こんなふうにいう「私は座ることができない。ひざが痛い。背中が痛い。お腹が痛い。めまいがする。疲れた。」と。

仏陀は言った。無知で未熟な弟子は二つの矢を受ける。それらは彼の心と体を傷つけるが、一本目は身体だけを傷つけるのだ。仏陀は病気になったときもまた、教えを続けた。彼の教えは全く止むことはなかった。重い病に倒れまさに死の間際で彼は瞑想的没入へと入りそして逝った。酷い腹部の痙攣が彼の邪魔をすることは決してなかった。

智恵を授かり修練した弟子もまた身体の問題と困難を抱える。この身体は完璧ではなく完全に満足するものではない。無知で未熟な弟子はそれによって影響され、マインドの中で反応が生起し応答する。「私は気分が悪い。調子が悪いのでこれやそれができない。」身体が痛いので座れない、横になれない。最悪なのは、身体が指示する方へ行為を適応しようとすることだ。

状況を完全に適応させ、身体が完全によいと感じることなど可能だろうか?身体が常に完璧だと感じる状況など誰が見たことがあるだろうか?あなたはここからそこへと動くことができる。ある環境からもうひとつの環境へ、椅子からソファーへ、ソファーからフロアーへ、そしてまた椅子へ。そしてどうなった?何も変わらない!そう、いつも問題がある。それなら枕の上に寝ていた方がましだ。

身体、それは私たちを構成する5つの属性の最初のひとつだが、その特性として移り変りゆく(changeable)性質がある。誰もそれを否定する人はいまい。しかし移り変わりゆく性質はそれとともに自動的に不満足(unsatisfactoriness)をもたらす。たとえ私たちが快適な姿勢を見つけても、5分か10分以上もそのままは続かない。不快が繰り返し生じる。夜に最上のマットレスで寝ているときでさえも、身体は動くのだ。

なぜなら身体は生得的に変わりゆくものであり、そこには常に摩擦がある。血流、肺、心臓、呼吸の動き、それらはすべて生きるために必要だが、各々の動きは摩擦をつくり出すのだ。それを避けることは不可能だ。その動きによって微細な不快が生じる。それに気づけば気づくほど、ますますこの不快が分かるようになる。
そして身体がある限り決してそれを通して得られる完全な満足などない、ということも理解できるようになる。最終的には身体とその要求は度外視されなくてはならない。それは常に新しい要求を突きつける。食べ物で満たされたなら、器を綺麗にする必要が生じる。そしてそれを終えたなら、また新しい食べ物を欲するのだ。それはいつも決して満たされることのない何かに近づこうとしている。なぜならそれは常に変化しているからであり、繰り返し入力と出力を必要とする。さもなければ、生きていることができないのだ。

何度も何度も仏陀は解放への道としてマインドフルに身体に注意を向けることを奨励した。マインドフルネスをもって身体を観察せずして、不死への道を見た者はいないと彼は言った。これは身体の無用な要求について平静であることを促し、また「これは私の身体だ」というのは幻想にすぎないという事実に対しての洞察をもたらす。

なぜそれは私たちの望み通り若く、美しく、健康でいてくれないのか?そして若くて美しく健康な時でさえ、満足することができず、すなわちいつも楽でいられないという要求をなぜもつのか?その時、瞑想して坐ることでさえ不快になる。なぜそれはいうことを聞かないのか?なぜ私たちは生きたいのにそれは死ぬのか?なぜ私たちが他の人の身体に生きていてほしいとき、それらは死ぬのか?

それは身体、自己、そして死についてまったく混乱しているか、アタマで誤解しているのだ。私たちそれぞれには、この身体は私のものだという強い感覚がある。しかしながら人が身体にできることは、その要求にいつも応じることを除いてほとんどないのだ。それが疲れたらベッドに寝かせなさい、それが空腹になれば、ディナーテーブルに付けなさい、それの喉が渇いたなら、何か飲み物を与えなさい、それが不快なら動かしなさい。私たちはその要求に忠実なのであって、本当にそれを持っているのではないのだ

マインドフルネス(それは身体の動きと気分に十分な注意をむけるものだが)によって、身体とはある方法と様式でたまたま動いているパーツの寄せ集めに他ならないのだということを、明晰性をもって最終的に理解できるようになる。パーツが全く完全に働くということはない、完全ならどんな痛みや苦痛もないだろうが、そしてそれらは一定の年数の間動き続けるだけなのだ。

たちはこの身体を「私のもの」と呼び、「me」の幻想を作っている。私たちは、自分がどのように見えるかを知っている、と考える。鏡の中を覗き込んでmeを、実際にこれがmeなのだと理解する。しかしながら、よく見てみると何千ものmeを見出すだろう。全部違うサイズで、違う形で、違う色だ。時々太っており、時々やせている。最初は背が低く、それから高くなる。黒い髪があるが、やがて灰色になり、メガネをしていないが、後にメガネをかけている。惨めな気分であったり、すばらしいと感じていたりするときもある。
こう問われねばならない。「どちらがmeなの?」もし、答えが「私はこれらの異なる人々すべてである」なら、私たちは少なくとも既に議論してきたように、私たちは一人ではなくおそらく10万人の人であると分かる。10万分の1を取り上げて本当のmeだといえるだろうか?そのmeであり続けるためには、真の誰かがいなければならない。一人の人にとって10万人であることは不可能だ。それは成り立たないのでは?

私たちは「この瞬間に私であるひとつをピックアップする」と考える。しかしそれから次の瞬間はどうだろう?今から10年後はどうか?常にこの瞬間におけるひとつ、それがmeだ。私たちはいつも変化しているme(それは時としてほとんど認識できないが)で切り上げる。しかしながら私たちはこれが私の身体であると考え、それをとても重要視する。もちろん私たちは自分の身体の世話をしなければならない。そうしないのは愚かなことだ。しかし身体に私たちの生命を指図させることは無益だ。なぜなら身体は決して満足しないから。死の間際でさえ身体はまだ快適を渇望する。ブッダがマインドフルネスの基礎についての講話の中で述べたいくつかの瞑想テクニックがある。それは身体についての執着と幻想を緩和するのに役立つ。
静穏と洞察のバランスが大切だ。洞察は不可欠で、条件づけをほどく(unconditioned)結果へと至らしめる。静穏は常に集中の能力によって条件づけられる。もし何かが身体に起こって身体がもはや座っていられないなら洞察が生じないため、静穏は消え去る。この身体についての洞察は、スピリチュアルな道の一部であり一里塚とされるべきものである。

マインドフルネスの講話の基礎の中でブッダが提唱した瞑想は、納骨メディテーション(charnel-ground meditations)と呼ばれている。自分の死んだ身体を見る9つの異なった方法だ。私たちは必ず死ぬ運命にあるのでそれが起こる前に今それを同じように受け入れよう。17歳のときよくしたように、心臓の鼓動が聞こえない、あるいはまったく感じない毎に、私たちは恐れで今でさえ震えるかもしない。

死の瞑想のひとつのやり方は自分を骸骨としてみることだ。瞑想の姿勢で坐ってそれを眺める。次に骸骨を離してひとつずつ骨をおいていく。それからその骨を崩して土埃にする。それはいくつかのエゴの幻想とこの身体への執着を取り去る。私たちの障害のひとつは身体的な快への欲望だ。とても疲れていると夜起きていることができない。それは、ハエや蚊から、暑さや寒さから、様々な不快から防御することを私たちに求めてくる。私たちは貴重な時間の多くをそれに費やし自分自身を守るのに忙しいのだ。

私たちがいずれ死ぬ予定であることを知ることが一つである。しかし人の死を内なるビジョンで実際に理解し、平静にそれを受け入れることがもう一つのことだ。2~3分、次の瞑想セッションをやってみてほしい。あなた自身が死に、その反応をウォッチするのだ。最初の反応は「私はできない、そうしたくない」というものだろう。もう一度やってみよう。マインドフルネスの講話の基礎は有名だ。なぜならそれは解放された不死への道を提供するからだ。

たいていの人は、平安や静寂を得ようと瞑想のコースにやってくる。彼らはすべてのことから離れ、家では見出せない至福、喜び、幸福を見つけたいのだ。すばらしい、しかしそれはブッダの教えのひとつの側面にすぎない。それは順調なコンディションに左右されるのだ。何人かは彼らの身体が瞑想するのを不可能にするという事実をすでに経験している。何人かは床に伏せっていて、何人かは家に帰っていった。それは彼らのマインドが不快に反応しているからだ。私たちは皆この危険に陥りやすい。それが起こる前にその危険を知ろう。仏陀はこれを「心地よい我慢(a pleasant abiding)」と呼んだ。身体の事実ありのままを知ることによって、それを何とかするのだ。(引用拙訳ここまで)


無常(impermanent)、無我(nonself)、相互依存性(interdependent)という五蘊の特性のうち、無常と無我について具体的に書かれていると感じました。

またすでに見てきたミンゲールのいう「苦しみの苦しみ」と「変わりゆくものに執着する苦しみ」に通じる部分がありました。

The Suffering of Change 変わりゆくものに執着する苦しみ - ウィルバー哲学に思う


「身体が本来的に無常なものであるが故に、絶えず楽になるようにマインドに指示を出す」という見方に触れて、David Loyのいう「いつも私たちに存在している欠乏感(a sense of lack)」と共通するものを読み取りました。

「これは私の身体だというのは幻想にすぎない」という言明は、「私は身体ではない、私は感情ではない、私は思考ではない」という目撃者の視点へとつながっていくようにも思えます。

最後のa pleasant abidingは重要なことを言っていると思われますが、原文では前後の文章も整合しない部分が残っており、解説も少ないためよく分かりません。「心地よい我慢」と訳しましたが、それが適切かどうか分かりません。もう少し調べてみるつもりです。

今回は以上です。