ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、アドラーなど、複雑系や脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

五蘊その2「受」―Feeling

今回は五蘊の二つ目であるfeeling について、Ayya Khemaの“Being Nobody, Going Nowhere”で解説されている部分と、Thich Nhat Hanh が“The heart of the Buddha’s Teaching”で解説されている部分をあわせて見ていきたいと思います。

(以下引用拙訳)
五蘊の二つ目はfeeling(感受)だ。それは私たちのエゴの幻想の中のもうひとつの重要な部分である。なぜなら私たちはfeelingを私たちのものであると信じているからだ。私は良い、あるいは悪いと感じている。私は幸福、あるいは不幸だと感じている。しかしながらそれらが私たちのものなら、なぜ私たちはそれらを管轄しているのだろうか?なぜ私たちはいつも良く感じることができず、いつも幸福に、いつも楽に感じることができないのだろうか?なぜそうではないのか?これをすべて担当しているのは一体誰なのか?

エゴの幻想は、身体とfeelingが私たちのものであると信じていることから生じる。しかしながら私たちがそれを精査したとき、本当にそうだとは言えないという結論に達せざるをえない。ではどのようにして私たちはそれがmeであると考えるようになるのだろうか?何らかの不快感、悲しみ、退屈あるいは欲求不満がある時、私たちは不快に、悲しく、退屈になる。「このfeelingは生起し、過ぎ去る、他のすべてのfeelingと同じように」と知る代わりに、そのfeelingに巻き込まれることによって反応しているのだ。

私たちが悲しみや欲求不満、退屈あるいは不寛容からアテンションを外した瞬間、それらは去る。しかしながらその代わりに、私たちはfeelingが自分とともにあり、それに応じて行動していると信じているのだ。怒りのfeelingが生じたとき、人々は「イエス」という代わりに怒る。それは怒りのfeelingだ。それは過ぎる。私はそれから私のアテンションを切り離す。「私は身体であり、私はfeelingだ」という信念こそが、エゴを作り出しているのだ。(ここまではAyya Khemaによる)

(ここからはThich Nhat Hanhによる)
私たちの内側にはfeelingの川があり、その川のすべての水滴がfeelingだ。自分のfeelingを観察するため、川岸にすわって、それが流れるままに各々のfeelingを確認する。それは楽しい、楽しくない、あるいはどちらでもないかもしれない。一つのfeelingはしばらく続き、それからもう一つがやってくる。瞑想とは各々のfeelingに気づいていることだ。それを認識し、それに微笑み、それを深く見通し、ハート全部で抱きしめる。もし私たちが深く見続けるならそのfeelingの本質を発見し、もはや苦痛のfeelingでさえ怖れなくなる。

各々のfeelingを深く見通すことで、私たちはその根本が私たちの身体に、知覚に、深い意識にあるものであると見極める。Feelingを理解することは、その変容の始まりだ。強い感情であってもそれが鎮まるまでマインドフルネスのエネルギーで抱き締めることを私たちは学ぶ。マインドフルな呼吸の実践、腹の凹凸にアテンションを集中することで、ちょうど幼い弟や妹との世話をするように感情の世話をするのだ。

私たちはfeelingと感情を深く見通す実践をし、それらを存在ならしめた栄養分(nutriments)を確認する。もっと健康な栄養を自分に提供できるなら、私たちのfeelingと感情は変換できるのだ。私たちのfeelingは構成物(formations)であり、一次的で(impermanent)、実体のないものだ。私たちはfeelingに自分自身を同一化しないことを、それらを自己として考えないことを、それらの中に避難所を求めないことを、それらのせいでは死なないことを学ぶ。この実践は「非―怖れ」を涵養するのに役立ち、しがみつく習慣からの解放、苦しみにしがみつくことからの解放をもたらしてくれる。
(引用拙訳ここまで)


エックハルト・トールの「ペインボディに餌をやらない」を思い出しました。
「私たちはfeelingと感情を深く見通す実践をし、それらを存在ならしめた栄養分(nutriments)を確認する」と書かれていますが、その「存在ならしめた栄養分」とは、トールの「ペインボディに対して与えてきた餌」と同じことを言っているようです。

ペインボディに餌をやらない、ただしシャドウに留意して - ウィルバー哲学に思う


そしてやり方次第でそれは変換できるということです。(参照:ILPのシャドウ・モジュール)