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ウィルバー哲学に思う

「統合」の哲人ケン・ウィルバーにはじまり、仏教心理学的視点を取り入れたマインドフルネス、第三世代の認知行動療法ACT、そして近年ブームのアドラーまで、脳科学的なアプローチも加味し、心理哲学的な関心について綴っています。

われわれは経験のありのままを見ていない

前回まで五蘊をテーマにしてきましたが、今回は脳神経学的な観点との対比によってこれを考えてみたいと思います。

以下はミンゲールの“Joyful Wisdom”のThe Reality of Perspectiveという節からの引用です。(P66~p69)。

私がさまざまな科学者との議論を通して理解したことは、区別する能力(capacity to make distinctions)はサバイバルの道具として進化してきたということだ。

議論するまでもなく、例えば毒のある植物あるいは果物かどうか、栄養のある植物あるいは果物であるかどうかの識別は、有用である。

同様に、食べるものと私たちが食べられてしまうかもしれないものを識別することはもちろん役立つのだ。

人間は複雑な方法でこの区別を行うプロセスに対応している。それは生物学的そして心理学的な言葉で理解される。

厳密な生物学的な観点からいうと、いくつかの知覚行為は3つの不可欠な要素を要求する。まず、感覚器官である。目、耳、鼻、舌、肌だ。次に、知覚の対象となる物。例えば、花。
最後に、感覚器官から受け取ったシグナルを処理し応答する能力だ。

脳のエリアで、感覚器官とそれらを接続している繋がりは、ニューロンとして知られる主要な細胞からできている。

人間の脳は数十億のニューロンから構成され、それらの多くは学習、記憶、感情に関係した構造を形成するために組織化されている。

これらの構造の間の相互作用はとても複雑だ。

例えば花を見ているとしよう。赤いバラだ。

それは対象だ。あるいは科学的な言葉では、「刺激」として言及される。
あなたがバラを見るとき、目の細胞はまず、上の方は丸くて下の方は尖っている赤いものの束からできている物、それは緑の茎をもち…を認識する。

視覚的な情報は目から視覚野(視覚器官を通して受け取った刺激を組織化する脳内のエリア)に送られ、視神経を作り上げている繊維や紐のようなものを構成する細胞の集合を通して、その映像は変換される。

この視覚の刺激を受け取るや否や、視覚野は素早いメッセージを、脳の中心近くにある細胞の集合である「視床」として知られる脳の部位に送る。

そこでは感覚器官からの多くのメッセージが、脳の他のエリアに送られる前に「コード化」される。

面白いことに、視床という言葉は、古代ギリシャ語でベッドルームを意味する。(そこでは個人的な会話がしばしば…)

視覚野からのメッセージが視床へ手渡されたなら、その後それらはいくつかの方向へ送られる。

ひとつは「大脳辺縁系」に送られる。そこは苦痛と快楽の区別、感情的な反応の決定、学習と記憶の基礎を提供する主要な脳の部位だ。

脳のこの領域の2つの重要な構造が、私たちが構成するメッセージと記憶を解釈するうえで、特に重要な役割を演じている。

ひとつは扁桃核という小さなアーモンドのような形をした神経の集合体で、経験の感情的な内容を決定する。

もしあなたが例えばその黒ずんでいて尖った物によって刺されたなら、その「赤いものの束から成る赤いもの」を、「悪い」あるいは「不快な」ものとして、反応するだろう。

もうひとつは、記憶を一時的に格納しておく場所である「海馬」だ。

それは経験の文脈や意味を提供する。例えば私たちにはじめてバラを見たのはいつどこであったかを思い出させる働きをする。

同時に視床のベッドルームに集まってきた親しい会話が「新皮質」に手渡される。専ら分析機能を担っている領域として科学者に広く理解されている脳の最も外側の層だ。

そこで私たちは物を名付ける方法を学び始め、パターンを区別し、コンセプトを形成する。そこで「赤いものの束からなる赤いもの」を「バラ」として定義するのだ。

そこはまた辺縁系で生じた記憶と感情的な反応を転調する(modulate)領域でもある。そこでいくらかは押し固められ、他は増強されるのだ。

長々と述べたが、感覚器官をつくっている数千の細胞と脳の様々な神経構造の間のこのコミュニケーションのすべてが、私たちが指をパチンと鳴らすよりも短い時間、一秒の何分の一化の間に生じているのだ。

そして脳はほとんど即座に反応する。そしてコルチゾール、アドレナリン、ドーパミン、そしてエンドルフィンのような化学物質の放出を刺激するのだ。

それによって身体は、心拍が速くなったり遅くなったりする、あるいは気分も変わるのである。

そして一連の回路が、感覚器官、脳構造、身体器官、内分泌系の間に確立される。

ある種の即席メッセージネットワークが、本当に簡単に、赤いバラの内なる「地図(map)」を作り出したのだ。

ほかの言い方をすると、私たちはバラそのものを見ているのではなく、むしろその観念(concept)を見ているのだ。

この観念はしばしば広範かつさまざまな要因によって条件づけられている。最初の経験を取り巻く状況、さまざまな脳の部位に蓄積された記憶や期待、後の経験によって生じた調整など。おそらく最も重要なのは、経験者(私)と経験されるもの(バラ)の間の区別である。

例えばバラと本来的にそれから切り離された存在としての「私(me)」の区別は、内なるイメージそのものだ。それはさまざまな神経構造と他の身体システムの間の相互作用から生じたものなのである。(引用拙訳ここまで)



この赤いバラを認識する一連のプロセスは五蘊と対比することができます。

目が五蘊の第1である身体に、視覚野が第2のfeeling、視床が第3で知覚に該当しそうです。

扁桃核は「経験の感情的内容を決定する」のですから第4の心的構成ではないでしょうか。あるいは第2のfeelingとも関連した部位といえるかもしれません。

海馬は「記憶を一時的に格納しておく場所」ということから第5のstore consciousnessに関連している部位と考えられます。

新皮質は「名前を付け、パターンを区別し、コンセプトを形成する」ことから第3の知覚と第4の心的な構成に関連しているといえるでしょう。また「辺縁系で生じた記憶と感情的な反応を転調する(modulate)領域でもあり、そこでいくらかは押し固められ、他は増強される」と書かれていることから第4の心的構成と第5の保蔵意識に関連しているとも考えられます。

こうした対応関係は厳密である必要はないでしょう。重要なことは感覚、知覚、感情、思考という一連の認知プロセスと、複雑で高度な人間の脳神経回路が対応して行われているということです。

そしてこの「区別する能力(capacity to make distinctions)はサバイバルの道具として進化してきた」のです。

 有用か有害か?食べることができるか、逆に食べられてしまう危険があるのか?を識別できることは人類が食物連鎖の頂点に立つ上で間違いなく貴重な能力です。

しかしその能力が「私たちはバラそのものを見ているのではなく、むしろその観念(concept)を見ているのだ」というように作用するのです。

そしてその観念は過去の経験とその記憶によって条件付けられています。6月27日のブログ五蘊その3「記憶によって条件づけられる知覚」で見てきた通りです。

また、昨年9月28日のブログで紹介したエックハルトトールのいう「ベールを通した知覚」です。

心の静寂と思考の不在によって特徴づけられる「意識のphenomenon」 - ウィルバー哲学に思う

そしてその「条件付け」が厄介なのです。

ミンゲールの師サリジェイ・リンポチェが繰り返したという教えの部分を再掲載します。

「もし幸福になりたいのであれば、強迫観念や性向に根ざした反応を生み出す『条件づけの要因』を認識し、それをうまく扱うことだ、という教えでした。師の教えを要約しますと、物事をあるがままに、思い込みなしに見る私たちの目を曇らせる限り、どのような要因も強迫観念的なものと理解すべきだ」


というほどこの「条件付け」を自覚することは大切なのです。

「条件付けられている」とは、斉藤啓一氏の表現を借りれば「機械的な反射メカニズムの奴隷になっている」ということです。

それは五蘊その4で見たように、知覚が「保蔵意識」に格納されている過去の記憶を参照して今起きている事象に「意志」を埋め込むのです。

このプロセスは「ありのまま」から、二度大きくかけ離れ、「認知の歪み」を拡大することになるのではないか?と私は考えています。

一度目は、ラベリングの段階。「あっこれはバラだ」というラベルをその対象に貼る段階。この段階でバラとバラ以外のものは識別され、見ている観察者と観察されているバラは区別される。「概念」を通してモノを見る段階。

二度目は、記憶との情報交換によって、埋め込まれた「業」と反応し感情を伴って意志に結びつく段階。

「バラといえば…私はあまり好きではない。特に赤くて大きいバラは見たくもない…。」

すなわち「条件付けによって影響を受ける」段階です。見ている対象、経験している事象に対して自分固有の「観念」が作用して認識する段階。その観念が極端な場合が、固定観念であり、強迫観念です。

認知療法バイロン・ケイティのワークはこの第二段階の極端を是正しようとする試みでしょう。

ラベリング以前の実相を見ようとするのが神秘主義ではないでしょうか。

これでようやく、以前からずっと保留していた「経験に対する反応や解釈は選択できる」を書く準備が整ったようです。

われわれは経験のありのままを見ていない

これを今回のタイトルにしたいと思います。